教育福島0087号(1983年(S58)12月)-020page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想

 

子供を育てる

車田 輝治

して数か月働いた後で、今年初めて新採用教員として勤めることになりました。

 

私は、多くの人たちと違って、一旦民間の会社に就職し、更に臨時教員として数か月働いた後で、今年初めて新採用教員として勤めることになりました。

教師になって最初に思ったことは、会社と違い「なんと人格が尊重される職業なんだろう」ということでした。なにか一つの仕事をするたびに、まわりの先生方から、「ごくろう様」「お世話様」という言葉をかけられます。最初は、どう答えて良いかわからず、「ア、イエ」と、どぎまぎしていました。会社にいた時には考えられないことでした。仕事をしてあたりまえ、そして何よりも利益優先ですから、以前よりも良い成績を残さなければ、いくらがんばってもどなられるだけだったからです。私には、与えられた仕事をして、ねぎらいの言葉をかけられることは、驚くべきことだったのです。なんだか、別の世界のような気がしました。(最近では、大分慣れてきてしまいましたが)

ただ、そういう雰囲気であればこそ自分の仕事に満足いくまでがんばろうとする気持ちがおこってきます。クラスの中がまだよくまとまっていない時や、何かの行事でうろたえてしまっている時に「よくがんばっているね」と目上の先生から言われると、かえって申し訳ない気持ちになり、この次こそはうまくやろうという気持ちになるのです。このことは、会社にいた時には味わえなかった経験です。会社ではうしろから誰かにたたかれるような思いで過ごしていました。教師という職業は、結果と同時に、そこに行きつくまでの過程も大事にしてもらえる職業なのだと思いました。

また、毎日の「ごくろう様」という言葉の中に、この職業に就いて良かったといら気持ちと同時に、子供たちに対する私の姿勢についても反省させられます。「育つ」という言葉が頭の中にうかびます。私が一個の人間として尊重されるように、どれだけ私が子供たち自身の人間性を尊重してあげていただろうかという思いがします。一人の人間として尊重してあげることが、その個人を、「育てる」ことになり、「育つ」ことにつなるがのだと思いはじめています。私がそうであるようにどんな子供でも良くなろうとする気持ちを持っているはずです。だから、自分自身の価値基準によって、ただ叱りつけたり、子供はこうあるべきだと既製品をつくりあげようとするものではなく、辛抱強さが要求されるでしょうが、相手を信じてあげることが成長をうながしていくものではないでしょうか。

教師という職業に就いて、人を教えることはまず、自分が学ぶことだということを切実に感じています。

私は、臨時教員だった頃も含めて、何かをつくりだしたり、物を売って利益をあげるのではなく、勉強を教えて給料をもらうことに奇妙な思いをしていましたが、私たちの最終目標である「子供を育てる」という高道で抽象的な言葉に、教師のあるべき姿と使命とやりがいを深く感じます。正直なところ、どんなことをするのが本当なのかよくわからないのが現状なのですが、「子供を育てる」ということを何度もかみしめて、見えないものをつかんでいこうと思っています。

この言葉に対して、恐れることから出発し、安易に謙遜したり、また、反対に自負したりせず、常に冷静な目で判断しながら、自分の役目を考え、果たそうと思っています。

(矢祭町立東舘小学校高野谷地分校教諭)

 

子どもといっしょに

子どもといっしょに

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。