教育福島0087号(1983年(S58)12月)-021page
随想
失敗をのりこえて
中畑 律子
四月に初めて教壇に立った日のことは、今でも鮮明に思い出されます。大勢の子供を前に「先生も一年生です。みんなで楽しい思い出を作っていきましょう」と、自己紹介をすると、われ先にと校内を案内してくれたり、学校の様々な情報を知らせてくれた子供たち。この澄んだ瞳の子供たちのためにも頑張らねばと心に誓いました。
始めのうちは、授業も私のペースで進み、すべて順調でした。ところが互いに気心が分かってきた三週目あたりからクラス全体が騒がしくなり、今までと違った雰囲気が立ちはじめてきたのです。それでも私は、子供たちが伸び伸びと育ち、楽しい学校生活が送れるのなら、それでいいのでは、と安易に考え、細かい点には目をつぶってきました。
そんなある日、子供の日記に「先生なんて大嫌い」となぐり書きされていました。これには、私も驚いてしまいました。私の学級は、男二十四名、女十八名、合わせて四十二名の五年生のクラスです。もしかしたら、クラスの全員が私に不満を持っているのではないか、と思うと急に自信をなくしてしまいました。そして、この頃から学習用具の忘れ物、弱い者いじめ、といった様々な学級の問題が起こってきました。今までの安易な心とはうらはらに私の心はあせるばかりでした。
一度崩れたものをたて直すのは大変です。まず何とか協力する心を持たせながら、学習態度を良くしようと考え班活動の充実に努めました。毎日班の様子を書かせるようにしたところ、今までになく、子供の人間関係や悩みなどが見えて来ました。
また、大学でのサークル活動の経験を生かし、できるだけ多くのゲームや遊びを子供たちと行なうことに努めました。
更に、雑然とした中で授業が展開されていた点を改め、教室内の環境整備に努め、チャイムと同時に授業に入れるように努めたところ、一学期末ごろには、一応の落ち着きを取り戻すことができました。現在も少しは落ち着いたものの、まだまだ問題点が山積みされています。
しかしながら今までの経験の中で、私は様々な教訓を得ることが出来ました。
第一に私自身の指導に一本貫くべき筋が弱く、一貫性、具体性に欠けていたこと。
第二に自己の人間的力量の狭さから一部の子ども中心に学級経営が進みがちであったこと。
第三に教育は実践に尽きるということ。学生時代に学んだことは、観念的であったのに、それを現場ですぐに通用すると思いこんでいたことです。もっと学生時代に現場に役立つものを学ぶべきだったとも思います。
第四に何事でも先輩の先生に相談し指導・助言を求める謙虚な姿勢が大切だということ。
以上の四つが主なものです。
先日、日記を書いた子供が「先生のこと嫌いと書いてごめんなさい」と言ってきました。訳を聞くと、私が授業の進度ばかり気にかけていて、自分たちの話をよく聞いてくれなかったように感じたとのことでした。この時、今まで何かと反抗的だった子供が、私に少しでも心を開いてくれたことにうれしくなりました。今では、家庭学習のノートを見せてくれたり、授業でも積極的に挙手するようになりました。
結局教育とは、人間同志のぶつかり合いだと思います。そしてその中で子供にどれだけ成功感を味わわせるかが後の人生を開く鍵になると思います。そうした教育の喜びを見出せる教師をめざして今後も頑張るつもりです。
(須賀川市立第三小学校教諭)