教育福島0088号(1984年(S59)01月)-009page
提言
描彩中の筆者
工面してもらうという状態であった。
現在は、弟子をとる職人も少ないし、また弟子入りをする若いものもいない。友人のところで、弟子入り希望の青年を内弟子にしたが、 「もっと真剣に心を打ちこんでやれ」と言ったところ、荷物をまとめて出て行ってしまったという。短いながらも一時は、師弟の関係であったろうに「お世話になりました」の一言もないのだという。今は、労働基準法とかで働く時間が決められているそうだが、当時は朝六時から夜の十時ころまで、無心になって作品をつくるのが常であった。十四歳から十九歳まで師勘内のもとで木地挽物・こけしを修業後、遠刈田の作田栄利氏のもとでも修業した。大正十二年の春、東京は神田錦町の沖津徳蔵さんのところに行き、おぼんや菓子器等をつくっていたが、八月二十五日に一週間の休みをもらい白石にもどっていたところ、九月一日午前十一時五十九分発生の関東大震災のため帰京できず、鎌先の渡辺幸次郎さんのところで働き、この年結婚して、こけし業として独立したのであった。
こけしは生きている、こけしの顔は見る人の心を反映する、とつくづく思う。嬉しい時には嬉しそうに悲しい時には悲しそうに、である。幸い、八十四歳の今日まで健康に恵まれこけしづくりに明け暮れてきたが、息子も孫も、息子の嫁もこけし工人として私の過去をついでくれるようになった。生きているこけしを生きている私自身がつくり続けてきたことに、いま大きな誇りを感じるのである。1
堀口大学先生に「こけしは なんでかわいいかおもうおもいを いわぬから」という詩がある。思えば、私自身、おもうおもいをいわないで、ひたすらにこけしづくりをしてきたのであった。