教育福島0088号(1984年(S59)01月)-008page

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はるなつあきふゆ

 

こけしは生きている

 

こけし無審査工人 鎌田文市

 

【筆者紹介】

弥治郎(師佐藤勘内)、遠刈田(師作田栄利)で修業。昭和三十八年、全日本こけしコンクールで二十四傑、名人位に指名された。

昭和四十八年、白石市産業功労賞受賞。昭和五十年、宮城県産業功労賞受賞。無審査工人の資格をもつ。

弥治郎系工人中最年長で、弥治郎系鎌田こけしの宗家である。こけし製作実演の草分け(昭和二十三年、上野松坂屋で足踏ろくろを使用して実演)的存在の孝市氏は長男。孝市氏の妻うめ子さんも女性工人の一人者で孫の孝志氏も木地描彩ともに修業中。文字どおりのこけし一家である。

明治三十三年八月二十八日生の八十四歳、宮城県白石市出身。

生家は温麺製造や質屋を営んでいたが、学校を出た時に親父から「お前の好きな道を選べ」と言われろくろ工場で働くことにしたのが大正二年の四月のこと、もう随分古い昔のことである。ろくろ職人として傘の部品をつくっていたが、原木入手が困難となり弥治郎の佐藤勘内の門をたたいて弟子入りをした。

大体、傘の部品にする原木は、小口一寸五分から三寸までのもので、三寸以上のものは使わないから原木をなかなか手にすることができなかったのである。ところが、木地こけし等の原木は、一尺でも、二尺でも太いものは割って使えるので、大正三年ころから師勘内について修業し、こけしや玩具を製作していたのであったが、当時の師弟関係というものは厳しいもので、自分なりにいい作品ができたナァと思って、 「どうですか」と見てもらうと、師は黙って裏の川に全部捨ててしまうのであった。また、師は教えてはくれないから、みようみまねでつくるのだが、一寸でも姿勢をくずしたりするとポカリとやられる始末である。もっともこのポヵリは暴力ではなく、無言の教えにも似たものであったと思う。給料などはなく、年に何回か、お盆とかお正月の休みに三銭から五銭くらい渡されて家にかえるわけである。

ある時、どうしても活動写真が見たくて、おそるおそる親方に言うと「見てこい」と言うだけで見料はくれない。仕方なく歩いて実家までもどり見料を

 

 

 


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