教育福島0088号(1984年(S59)01月)-049page

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教育福島0088号(1984年(S59)01月)-049page


こぼればなし

 

芭蕉が、奥州街道芦野の宿より陸奥路に一歩を踏み入れたのは、旧暦四月二十日のことで、それは曾良日記「白坂ノ町ノ入口ヨリ右へ切レテ旗宿へ行。廿日之晩泊ル」(宿記載なし)で分かる。最初の一泊は、現在の白河市旗宿であったわけだが、五月三日に伊達家臣片倉小十郎一万七千余石の城下町白石に宿を求めるまでの県内行程を、宿泊地を中心に駆け足的に繰っていくと

 

二十一日「矢吹」(宿記載なし)

矢吹へ申ノ上剋二着、宿カル(曾良日記)

二十二日から二十八日まで「須賀川」須か川、乍軍斎宿(同)

二十九日「郡山」(宿記載なし)

二九日快晴。巳中剋、発足。:日ノ入前、郡山二到テ宿ス。宿ムサカリシ(同)

五月一日「福島」 (宿記載なし)

五月朔日天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出。

福島へ到テ宿ス。日未少シ残ル。宿キレイ也(同)

五月二日「飯坂」 (宿記載なし)

二日快晴。:昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂二宿、湯二入(同)

五月三日「白石」 (宿記載なし)

三日雨降ル。巳ノ上剋止。飯坂ヲ立。:同晩、白石二宿ス一同)となる。

旧暦四月二十日は新暦の六月七日にあたるので、今様に表現すると、境明神を見て県内入りをし、伊達の大木戸を越えて宮城にぬけるまで芭蕉は、十二泊十三日の「ふくしまの旅」を続けたことになる。特に須賀川での七日間の逗留は注目に値する。「奥の細道」の旅で芭蕉が長滞在した例は数多くない。黒羽・浄法寺図書方、金沢・宮竹屋喜左衛門方、山中・泉屋久米之助方にそれぞれ八日間、酒田・伊東玄順亭(推定)に九日間、尾花沢・養泉寺に七日間が記録からみる長逗留だが、それも「雨止まず」 「終日晴明の日なし」というような理由によるものが多い中で、相楽等躬亭七泊は、お互いの絆の強さによるものと判断してよいだろうが、 「そこになにがあったか」と言ったら推理小説的発想でしかないだろうか。

芭蕉の本文では「笈も太刀も五月にかされ庸幟」と詠んで、飯塚(飯坂)に泊した日時を「五月朔日の事也」としているが、元禄二年は閏年であり四月は二十九日まであったので、実は「五月二日の事也」と記すべきことであった。これは、芭蕉の思い違いですまされよう。だが、五月一日、日の出の時刻に郡山の宿を立った芭蕉が、福島のきれいな宿に着いたのが夕方「日未少シ残ル」ころであった事実から、郡山にほど近い奥羽街道檜皮(日和田一の宿を離れてしばし、「みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらん」 (古今集)の花かつみを土地の人々にたずねて歩いて来ると、日は西山に傾く時刻であったというのは、この後、二本松、黒塚、郷ノ目神尾家を経て福島に入ったころ、まだ残照の夕暮れであったことと、どうつながってくるか。芭蕉独特の「虚構」だとばかりも言っていられないような気がするがどうであろうか。

 

そして、芭蕉の謎はもっとある……。

 

(ひ)

 

あとがきにかえて

あとがきにかえて

 

 

 


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