教育福島0089号(1984年(S59)02月)-045page

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こぼればなし

 

会う人ごとに「今年の教育福島の表紙絵はいいですネェ」と言われる。米倉 見先生のなごみがそのまま筆を伝って表現されるので、それはあたりまえのことなのだが、実はこれには裏話がある。表紙絵執筆の依頼にお邪魔したときの編集子の注文は「季節感のある奥の細道を」ということであった。以前に描かれたものを借用したいと思ったのであったが、個展や取材旅行の多忙の中にあって持に筆をとってくださるとおっしゃる。医王寺氏巾幟(四・五月)、風流の初(六月)、栗齋(七月)、岡部の渡り(八月)と筆をすすめるうちに「いやあ、まいったよ」と目じりで笑われる。秋から冬にかけての表紙には、それぞれの四季があった方がよいわけだが、芭蕉が県内を通過したのは、今の六月八日から十九日にかけてのこと。十月にはもう旅の終わり伊勢長島大智院に行脚の足を休めているわけ。そこで「まいったよ」が「自分流の細道を描いてみるワイ」とあいなった次第。なんと見事に先生の心象風景が描かれているではないか。また先生は、飾り気のない野人である。ある時なにかの話のついでに落款の話題になったが、これもまた先生の性格を坊佛させるものであった。先生は、数多く落款をお持ちだが、よく使われるのは「非理法権天」(楠木正成の旗印で至極素朴に先生流に自然、真実こそが全てといった風にお好きの由)、「推村堂」(もっとも心酔、畏敬する大先人池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂の最下の文字をもらって)、「薄」 (浮草の意で根を一定の所につけない、つまりひもつきでないから好きだとのこと)とごく簡単に「免」の四つ。持に「雅村堂」は屋号に思われるので、下に小さな水滴様のものが入れである。これは、大雅、蕪村、玉堂の尊敬する三大家に比べ、はるかに小さな存在である自分だとおっしゃる。「体」は、自分で彫られたそうだが、斎藤 清先生にほめられたんだと童子のような顔をなさった。そして「薄はネ、ボクがいいなあと思った作品にひそかにおすんです」と小さな声で教えてくださった。

 

絵筆をとっているときの厳しい目ざしを、どこかに置き忘れたように、古稀を迎えた痩身の画家は、眼鏡の奥の柔らいだ細い目で、冬の穏やかな日だまりの仕事場に客を案内する。腰をやや折りかげんにして、「やあ」。ずいぶんと長いこと、自然を慈しんできたこの画家のひとことは、緊張した初対面の訪問者の心の中にここちよく響く。形式を嫌い、全ての価値の基準を人の情に託し、疑うことを知らないこのひとの仕事場は、主人に似て温かい空気が流れている。いつも、自らの心のありようの延長線上に他人を招き入れてくれるその頬に、相手に気を遣わせまいとする和やいだ表情があらわれ、やがて気恥ずかしげに、少し白くなった油気のない髪に手がゆく。心ゆるせる相手と出会った時のこの画家のいつもの癖である。………才能に恵まれていれば、こんな書き出しで「墨彩の人」米倉 免先生を主人公にした小説を書いてみたい衝動にかられるのである。

(ひ)

 

 

 

 

 


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