教育福島0090号(1984年(S59)04月)-029page

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随想

私の小学校時代

 

貴重な宝物

 

新妻京子

 

新妻京子

 

いわき市の北の果て、海にも近く山もあり自然の環境に恵まれた静かな村の小さな分校が私の小学時代の思い出の場所でした。複式学級で一・二年、三・四年の二学級編成、生徒数五十名位と記憶しています。

一・二年生は、女の先生でいつも袴をはいていました。体育の時間はどんなことをしていたのか思い出すことができません……も一年生は、ノートを使わず石盤に石筆で書きました。先生は赤いチョークで大きな五重丸をくれました。丸が欲しくてがんばったものです。また丸が消えないようにして大切に持ち帰り、父母に賞めてもらうことがたのしみの一つでした。男の先生は、教室の隣が住宅でしたから、放課後もおそくまで勉強を教えてくれたり、ドッチボールをして遊んでくださいました。

複式学級でしたから、二年生が授業の時は一年生は自習をしていましたが聞き覚えに掛け算九九などは、一年生で覚えてしまいました。また三年生で覚えなければならないことを、四年生の時に復習できる機会もあったためか、落ちこぼれる子は少なかったようです。

国の祝日は、本校で式典が行われましたので分校生徒も参列しました。式場は、咳一つできないほどの静けさと緊張感が漂い、髭をはやした校長先生を中心に、教頭先生のすばらしい号令で、式は整然と厳粛に行われました。お祝いに、みかんや紅白のお菓子をいただいて帰りました。先生方は、式の後に職員会議があったのでしょうか、帰りは、上級生が引卒をし下級生の面倒を見ながら七キロの長い道程を歩いて帰りました。今とくらべて交通量こそ少ないが、道中に恐ろしい人や、乞食に出合うことがありました。そんな道を子供達で歩いて帰ったのですから、分校生ならでわの賜物と当時の上級生を偲び感謝しています。

その分校も時代の発達とともに廃校となりました。分校の跡地は、縫製工場の一部、また公民館として村の社会教育の場となり役目を果たしているようです。

五年生になると七キロ離れた本校に歩いて通学しました。この頃から空襲が激しくなりましたので、登下校中に避難しなければならないことが何度かありました。或る時は、上級生と一緒にトンネルの中に避難して線路に沿って歩いたこともありました。もしもトンネルの中で列車に出合ったらどうしょうととても恐ろしくなります。こんな大冒険をして先生に説教されたことも思い出されます。また雨の日の登校は忘れることができません。物不足で長靴や傘は限られた人しか持てない時代でしたから私は、下駄履きに毛布を被ってのいでたちでした。毛布は雨に濡れると重く、着物まで濡れてしまうこともありました。下駄は雨に濡れるとすべつて歩き難いので下駄を持って素足で歩きました。道路も今のように整備されず砂利道で石ころがいっぱい。秋になると栗のいがが落ちていてこれも難儀の一つ、足の裏を真赤にして歩いたものでした。

遅刻をすると罰則があるので絶対に遅刻はできません、上級生の指揮で電柱を目標にして走る、歩く、そしてまた走る。息をはずませながらがんばって登校しました。

下校は、仲良し友達と道草をしながら四季折々に咲く野花を摘んだり、山の中に入ってばら華や山ぶどう、栗やヨツヅミなど取って友と分け合って食べたことなど楽しい思い出もたくさんありました。家に帰ると子供の仕事がきめられていました。薪を割って風呂焚きをする。兎や緬羊の草刈もしました。また夕食の代用食つくりの手伝いもしました。

貧しく食糧難時代でしたから勉強どころではなく、生きるために働くことをしっかり学びました。学校でも校庭や山の畑を開墾してさつま芋や大豆を栽培しました。また農家に勤労奉仕に行ったこともありました。

ふり返って見ますと今の子供達のように勉強らしい勉強はできず貧しく多難な小学生時代でありました。しかし今の子供達に欠けていると言われるようなことを生活の中で数多く体験できたことが、私の生涯の貴重な宝ものであったとひそかに満足しているところです。

(いわき市立高坂幼稚園園長)

 

 

 


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