教育福島0090号(1984年(S59)04月)-030page

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随想

私の小学校時代

 

恩師に学ぶ

 

小沼キミ子

 

小沼キミ子

 

去る一月、十数年ぶりに故郷で同級会を開いた。

「お久しぶりでございます。……十年前の思い出を心ゆくまで語りあいませう」

と、記された案内状を手にして、私の小学校時代は、もう、遠い昔になってしまったことを思い知らされた。

昭和十六年、国民学校第一回の入学生として、小学校生活を第二次世界大戦とともに歩んだ年代であってみればこのような仮名遣いもなつかしくさえ思えてしまうのです。

その日は、七十数名の卒業生のうち四十名が出席するという盛会さで、タイムトンネルは三十数年前に逆回転し旧交を温めあうことができた。それぞれの友の顔に、その手にこれまでの生活のあとをたどることができ、なつかしさもひとしおであった。また、四人の恩師にお会いできたことは、この会をより思い出深いものにしてくれた。

 

なかでも、S先生とは中学卒業以来の再会である。四年生のとき、わずか数か月のご指導しかいただかなかったにもかかわらず、その印象は今もなお鮮明である。

朝、教室に入られるときの、大きな「おはよう」のあいさつ。行儀を悪くしていようものなら、「誰だ!」と、更に大きな声が教室中をゆるがす。緊張の一瞬である。しかし、静かにしているときは、「おい、○○、今日は顔洗ってきたな、よしよし」「△△子、頭とかしてきたのか、先生とかしてやるぞ」…といった具合である。天然パーマの私は、常連のひとりであった。今、教育の場で強調されている「一人一人との心のふれあい」を、四十年も前に心しておられたのである。

また、休み時間や放課後などには、おもしろい話、こわい話をしてくださった旧制中学を卒業したばかりの若い先生であった。先生が入隊される朝、「名誉なことです」と、おっしゃられた校長先生の言葉がうつろにひびき何も言えなかったこと、昨日のようである。

先生は、今、東京に住んでおられる。終戦を境にして教職を去られたのは、(先生としてやっていく自信がなくなったから…)という話もいま初めてお聞きした。目まぐるしく移り変わる時代の流れの中で先生も一つの生き方を変えられていたのだった。

 

「お話」と言えば、六年生のときお世話になったM先生は、よく本を読んでくださった。教科書さえ十分でなかった戦後の混乱期であっただけに、先生の読んでくださる本の中に私たちは限りなくゆめの世界を広げていった。特に、「路傍の石」の感動は忘れられない。中学、高校生活の中で主人公「愛川吾一」の生き方は、どれほど私を励まし心の支えとなってくれたことだろう。

H先生は、「君たちは、『おしん』の時代を体験してきたのだ」と、おっしゃられた。確かにそうである。でも、私は苦Lかったとは思っていない。大らかな自然の中で存分に体を動かすことができたし、私たちを心豊かに育てるために努力を惜しまなかったよき先生方に恵まれたことに感謝している。

 

毎日、元気のよいあいさつで始まる一日、読書への試み、小さな努力を積み重ねることの大切さを感じとらせることなど、お世話いただいた先生方の指導の中に、私の教育活動の原型を見いだし、小学校のころの感化力の強さに驚き恐ろしくも思うほどである。

今年もまた、新しい出会いがスタートした。

これまで私を支えてくださった多くの人々の恩を感じながら、その幾分なりとも目の前の子どもたちに注いでやらねばと思うこのごろである。

(本宮町立五百川小学校教諭)

 

 

 

 

 


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