教育福島0091号(1984年(S59)06月)-005page

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巻頭言

 

学ぶ喜び学ぶ楽しさ

 

鈴木健一

 

鈴木健一

 

自ら考え、自ら学ぶことの重要性が叫ばれて久しくなるが、確かに人に強いられ、いやいやながらやる勉強では、ほんものの学習ではない。喜びを感じ、楽しさを味わいながら学ぶ姿が理想の学習像である。では、喜びとか楽しみとはどういう時に感じるのであろうか。

余談になるが、中学時代の国語教科書にあった江戸時代の歌人橘曙覧の歌をいくつか取り上げてみたい。

◎たのしみは 百日ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時

◎たのしみは 珍しき書 人にかり はじめひとひら ひろげたる時

◎たのしみは あき米びつに 米いでき いまひと月は よしという時

庶民的な曙覧の心情が躍り出ている歌である。最初の歌は、どうも歌がまとまらない、うまい表現が出てこないと、百日も考えてできなかったその歌なのに、ふとぴったりした言葉が頭に浮かんで、でき上がった時の喜びであろう。完成の喜び、成就の喜びである。二番目の歌は、こんな本を読んでみたい、この部分をもっと詳しく書いた本がないかなと思っていた時、思いがけなく友人から借りることができて、そっと一ぺージをめくった時の曙覧の心の鼓動が聞こえてくるような歌である。人間には知的探究の欲求があるが、その欲求の充足感である。きっと時間のたつのも忘れて読みふけったことであったろう。三番目の歌は、米も買えない貧苦の暮しをしていた曙覧にとって、一か月分の米が手に入ったことは、どれほどの喜び、楽しみであったことか、想像以上であったろう。生活の喜びである。

子どもの生活は遊びであり、勉強であり、スポーツであろうが、長らく我慢して求めたかったものが手に入ったら、それこそ大きな喜びである。

さて、引用と補説が長びいてしまった。本論に入ろう。学び、学習、勉強というそれらの言葉には、少しばかりニュアンスが違うが、学習とは、子どもたちの欲求に支えられて苦しみに耐え、障害を乗り越えて、めざす目標に到達する努力の連続である。安易に満たされた欲求の喜びよりも、苦しんで獲得する、いうなれば「やった!」という喝采を重視したいのである。要約すれば、「学ぶ喜び」とか「学ぶ楽しさ」とは、連続する学習の中で、節目節目において成就感や達成感を感得し、それに意欲づけられて、さらに高い目標に挑む苦しい経験の中でこそ味える喜びであり、楽しみであろうと思うのである。

ところで、喜びが成立するためには幾つかの要件があるように思う。毎日の授業を頭に浮かべ、私なりに列記してみたい。

一、まず子ども自身が体験すること。

二、成就感が内的報酬として成立すること。

三、辛抱や努力に対し、適切な助言や励ましを与えること。

四、喜びは一人のものから、みんなの喜びへと高める配慮をすること。

五、教師自身が「わかる授業」をめざして授業を組識すること。

(福島県小学校会長・福島第四小学校校長)

 

 

 


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