教育福島0092号(1984年(S59)07月)-005page

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巻頭言

 

校長先生の授業

 

校長先生の授業

永澤電四郎

 

「繰り上げ卒業ということで、昭和十九年の秋、私は福島県信夫郡松川町国民学校に赴任しましたが、それは、太平洋戦争も末期で、この田舎町にも、時には空襲警報が発令されるようになった頃でした。

私は、欠員になっていた六年女子組の学級担任になりました。在籍教は五十五名で、どの女の子も眼ばかり大きく、ギョロギョロしていました。それは戦争のため、栄養が十分でなかったためのものでした。

戦争のためというと、勤労奉仕作業のことを思い出します。学級全員で農、家を訪問して、稲刈り、麦踏みなどの手伝いをよくやったものでした。

また、父や母が食糧増産で忙しいため、毎日、赤ん坊を背負って学校に来ていた女の子が数名いたことも思い出します。彼女たちは、時に、赤ん坊を背からおろして、自分の席で、赤ん坊を膝に抱きながらノートを取ったりしていました。また、むずかると、赤ん坊を背負って、足音をしのばせながら教室のうしろへ行き、赤ん坊の尻のあたりを軽くたたきたたき、私の話を聞

いたりしていましたが、泣き出して止まらない時は廊下に出たり、さらに、泣き方が激しくなると、昇降口の方へ行ったものでした。

こんなこともありました。それは……(後略)」

これは、校長として授業に使用した自作の読み物資料です。

実は、二年前からですが、三月になると三年生の各教室に行って一時間ずつ校長である私が授業をすることにしております。もちろんこの授業のねらいは、卒業を迎える生徒の心がまえづくりにあるわけですが、私としては、それだけでなく、将来、生きていくうえでの支えになるようなものをも、生徒の心に残したいということもありました。それだけに、指導項目の選定には、ずいぶんと苦労したところです。

ところで、五十分授業ですから、指導項目は三つにしましたが、前述の読み物資料は、そのうちの一つ「受け持った生徒からの手紙」の中で用いたものです。これは、世話になった人のことは、いつまでも忘れないようにするということをねらったものです。そして、その中で教え子から訪問を受けることの学級担任の喜びにもふれました。

教育の成果は、すぐに出てきません。と言って、教育しなかったら、価値あるものが生まれて来ないことも事実です。いつの日か、価値あるものが生まれることを信じて、本年度も、校長としての授業を、心をこめてやりたいものと思っております。

それにしても、校長としての授業を始めた次の年度から、時折り、卒業した生徒たちが、職員室などに来るようになって来ましたが、偶然、そういうことになったのでしょうか……。

 

(福島県中学校長会長 福島市立第三中学校校長 ながさわ でんしろう)

 

 

 


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