教育福島0092号(1984年(S59)07月)-021page

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随想 ずいそう

 

釣礼賛

須佐 善信

 

ヘわがんね」−言葉では説明し切れない−とM君は祖父に言われていたらしい。

 

M君に久しく会わない。小学校時代の同級生で関西にいるらしい。今でも釣の師として尊敬している。幼時に父を結核で失ったM君の祖父が父親代りである。無口なこの祖父が魚取りの名人で、釣は勿論のこと、川魚の漁法に精通していた。小学校入学以前から祖父の魚籠持ちをしていたM君と一緒に釣をするようになったのは四年生のころからである。すでに釣については自信と風格を漂わせているM君だった。餌のミミズからしてM君は大小とり混ぜて準備して来る。魚の種類や大小に合わせてのことである。釣果はいつもM君が三倍から五倍多い。釣場まで案内はしてくれるが、いろいろ尋ねても「俺のを見てっせ」と答えるだけである。M君の祖父の流儀である「口ではわがんね」−言葉では説明し切れない−とM君は祖父に言われていたらしい。

ある一日昼食持参でM君と共にぢっちゃに連れて行ってもらったことがある。ぢっちゃの取り込みの早さ、瞬時に餌をつけ替えて糸を投げ込む動作の無駄のなさに驚嘆した。終日言葉を発しなかったぢっちゃではあったが……

M君は小学六年生で釣名人の評価を周囲から得ていた。温和で親切なM君に一つ癖があった。日頃無口なのが釣果の話となると一変して能弁家となり針小棒大もよいところで、自分の話に酔ってしまうのであった。善人M君今でも釣を続けているであろうか。釣好きはM君の影響である。釣は鮒に始まり鮒で終ると言われている。鮒で始まったが、現在は渓流でハヤが相手である。

朝五時近くに目覚める。下宿から自転車で五分、清流に着く。静かに接近し姿勢を低くして釣糸を振り込む。赤い玉浮子が流れ一瞬微妙な横揺れをした後に停止、穂先を軽く上げて合わせる。竿を握る手元に強烈な衝撃が間断なく伝わる。左右前後に獲物は走る。竿は半月を描いて振動する。対岸寄りの急流に逃げ込まれては糸が危ない。下流に行かれては、流水の抵抗で引き寄せられない。上流の深場に誘導する。引き込むたびに糸が鳴る。ゴボウ抜きできる相手ではない。引き寄せようとすると横転しながら左右に走る。敵ながら天晴れである。水面まで三十センチのところへ寄せる。清例な水中に姿を見せる。「尺物だ」二・三度やりとりした挙句砂底の浅場から静かに取り込む。観念したのか、産卵前の鮮かに赤い婚姻色を横腹に見せながら手元に近ずく。五号針が上顎に貫通し、口許から餌が垂れている。胴まわりが手で握って指先が合わないほどの太い大型ハヤ。魚籠の中で跳ねる震動が腰に心地よく、背後から鴬が鳴きかける。十五センチ未満の小型を岸辺の浅瀬の中で腹をさすってやり放流、釣果七尾を下宿に持ち帰り七時の朝食がうまい。

釣果がゼロでも楽しめる境地に達するのはまだ先のことであろう。釣行自戒五か条を定めている。一、無理な釣行をしない。二、川に入っても足を濡らさない。三、餌はできるだけ現場で採集し、疑似餌は使わない。四、高価な釣具は見るだけにする。五、先達の話を聞く。ストイックな自戒だが長年楽しむにはこの五か条が必要だと考えている。

晴雨・気温・水量・ポイント・風向き・獲物の生態を研究し、釣糸の太さ長短・浮子や針の型と大小・餌の種類やつけ方を工夫し、知恵と技術の限りを尽して挑戦する醍醐味を断つのはまだ先のことと楽観している。そうなれば、囲碁あり謡曲あり盆栽ありで、今から苦にすることもあるまい。五年前英国留学の際にはじめた写真撮影も趣味の一つだが、また語るに足るだけの域に達してはいない。多芸は無芸に等しと言うが顧みて如何と思う昨今である。 (福島県立西会津高等学校教頭)

 

大喝一声

海上 美津枝

た姿を、三十余年後の今にしても、尚、脳裏に克明に写し出すことが出来る。

 

「うるさい あっちへ行け!」障子を開けるやいなや、すごい形相で怒りに満ちた父の声がするどく突きささる。「普段はやさしい父なのに、どうして怒るのだろうか」幼時の私には、父が怒鳴る理由を知る術が全く無かった。ただ、父が目を閉じ、詩作にふけり、はたまた書に向かって腕組みをしていた姿を、三十余年後の今にしても、尚、脳裏に克明に写し出すことが出来る。

 

こよない希望と情熱の灯を胸にともし、この道に入り、早くも十六年の歳月が流れた。

今や、幼児教育の日進月歩は目を見はるものがあり、これに携わる者の責任と役割の重さをひしひしと感じる昨

 

 

 


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