教育福島0093号(1984年(S59)08月)-005page

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巻頭言

 

教育に期待するもの

 

教育に期待するもの

渡辺良雄

 

教育問題がうんぬんされるのは最近に始まったことではない。戦前の教育の中にも見られたことであり、現在と似たようなことがあったのである。ただ、かつては旧制中学の生徒の数が極めて少なかったこともあるが、生徒数から見た問題行動の発生の率は、過去も現在もあまり変わらないのではないだろうか。

現在、高校への進学が受験戦争とまで騒がれ、学校格差や偏差値等が問題にされている。しかし、かつての戦前の子どもたちは、現代の中学生より三歳も幼い今の小学校六年生の年齢で同じような進路選択の洗礼を受けていた。それにくらべると、現在の社会・親・教師は、今の中学生に対して過保護的で干渉しすぎの面があるのではないだろうか。

中学生ともなれば、ある程度自分なりの判断と行動のとれる年齢である。旧制中学においては、四年から高等学校に入ることができたのであり、彼らは、親や教師の助言はあっても、自らの判断で進学や就職を選んだのであった。その一年後輩にあたる現代の中学生をそれとくらべるとどうであろうか。そして、このことは子どもの責任だけを問うわけにはいかないであろう。

親の考え方の押しつけ、全体としての進学率の向上等は、なんとか高校へ入ってくれという親の切なる願いや、なんとしてでも一人でも多く高校へ入学させたいという教師の願いの、しからしむところであり、それが結果としては、実業高校を希望していても普通高校へ進んでしまうといったことの背景にもなっているのではなかろうか。生徒は案外、自分の適性や能力を心得ているものである。生徒の自主性を尊重してやるべきだと思う。希望にそわない形で高校へ入学しても勉強は手につかないのではないだるりか。そして、その不満が時には非行問題を生む要因ともなっていくと思われる。

その結果として、中途退学者が多くなってきており、問題視されている。しかし、中途退学した生徒を追跡してみると、案外まじめに、朗らかに、たくましく生きているものである。社会人としての教養も身についている子どももいる。学校だけが教育の場ではないことを、その子たちは証明している。

そこで一つの提案であるが、各種の高等学校を一本化してはどうであろうか。そして、入学後一定期間を経たら、普通科、職業科へと自らの希望するクラスに入る。また、職業科希望の生徒は午後なり一定の時間に別の施設へ行って実習をする。このことは、施設設備の集中化を画り、経済的負担の軽減をもたらすと思う。あるいは、退学生をそのまま社会へ放置するのではなく、退学したものの、まじめに社会で生活している者へは、専門的な教科、実習にも参加できるような方途を講じてやることも必要ではなかろうか。

 

勿論、これまで述べてきたことは、既に、県教育委員会としても実施しているものがあるであろうが、現在の教育問題が量の面のみにとらわれているような傾向にあるのではないかと考え、あえて私見を述べてみたものである。 (福島県美術協会長)

 

 

 


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