教育福島0095号(1984年(S59)10月)-005page

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巻頭言

 

五輪が生き残るために

鈴木 勝衛

もに、今回も政治の波という暗雲をもろにかぶった大会という印象が強かった。

 

ソ連などの不参加による輪の欠けた五輪、放映や広告、聖火リレーの切り売りなど話題になったビジネス五輪の評判や、いろいろな不安を抱きながら開幕された第二十三回五輪ロサンゼルス大会は、数々のドラマを生み、ともあれ無事終了した。相変らずの商業主義の進出、とめどないほどの巨大化と高度化をたどるとともに、今回も政治の波という暗雲をもろにかぶった大会という印象が強かった。

五輪憲章からアマチュアということばは消え去ったが、そもそもアマチュア競技者の大会として、人種、宗教、政治上の理由から、国家や個人を差別待遇しないことが原則であり、過去をみてもこの原則が国際親善や平和と友好に寄与してきた。また、五輪は都市が開催し個人の競技で国家間の競技でない建前であったが、これはいま思えば国家間の競技の色合いが濃くなると、国際間のトラブルやスポーツの変質を招くことを見通していたクーベルタンの卓見といえるのであろうか。

政治からの中立は五輪の原則であるが、五輪大会や各種の国際スポーツの場で中立を貫くことは極めて困難となった。中立どころかますます政治が持込まれる傾向がある。また、国のメンツをかけたメダル競争至上主義、はびこる商業主義、選手の生命にかかわるドーピング問題など、現代五輪がかかえる矛盾や問題は、人類がいま直面している平和問題や核の危機的な行き詰まり状態にも似ている感じがする。

ギリシャの都市国家の間で千二百年近く続いた古代五輪は、勝者に法外な賞金や賞品を与えるようになり堕落してつぶれたことは史実のとおりである。本来の純粋さを失いつつある現代五輪も、スポーツの本質にかかわるような諸問題をかかえ、いまや押しつぶされようとしている。歴史はくり返すというが、このような歴史はくり返したくないものだ。

何をやろうとしても難かしい混とんとした現代、全地球を統一し網羅した友好と平和の祭典を開くことは、至難の業といえよう。IOCもこれらの問題をかかえ、解決に結びつく決め手がないままに苦慮し模索を続けている。ギリシャのカラマンリス大統領声明はじめ、五輪を故郷ギリシャのオリンパス近くに里帰りさせ、ギリシャ恒久開催する声が再び話題になった。五輪が生き残るためには、クーベルタンの昔に返すしか方法がないのであろうか。ギリシャ恒久開催案も、五輪を救う有力な道の一つかもしれない。しかし、時代は常に動いており単なる郷愁だけでは問題解決にはならない。大切なことは、このような危機にこそ、五輪とは何かを問い直す好機であり、原点に一度立ち帰り、新しいスポーツ哲学と五輪精神にある理想実現のための現代に適応した制度の確立が根本であり、IOCの課題であろう。

(福島県学校体育研究連合会長 福島大学教育学部教授)

 

 

 


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