教育福島0097号(1984年(S59)12月)-007page
始末も出来ぬ者が、どうして良いものを作れるか」と、即座に宿舎に戻して出直させることにしている。
クリエティブな世界に生きようとする若者の中に、近ごろ髭をたてるものが多くなって来た。それを批難する訳ではないがキチンと刈り込んで手入れだけはしてもらいたい。その人間の中味がもろに顔に現われ出ているように思えてならない。どうせ髭をたてるなら盆栽を愛する如く、その髭を愛し手入れをしてこそ、真のダンディと云えよう。髭ばかりではない。よく家のたたずまいをみると、その中に暮す人々の様子や見識まで想わせることがある。家の中が、そのうちの人々の心が壁をとおし、窓を透かして外側にまで惨み出るものである。
楚々とした住いに、どこか気品と教養の深さを感じさせる住居に出合うと、しばし立ち止ることがある。初期の茶人達の求めた茶室への寂の如きものを感じるからである。
戦後流行った言葉に、キャンディ・ボーイと云うのがあった。外側の包み紙だけがいやにチャラチャラとしていて中身はたいしたことがない。安物のキャンディという意味で、外側だけを着飾ったキザな男達をそうよんだものであった。矢張り「内は外を作り、外は内をつくる」ことを忘れてはなるまい。
いまは、こういう職人も少なくなったが、嘗って大正から昭和の戦前戦後を生きた職人の中には、一日の仕事が済むと白手混じりの髪を水に湿して梳り、襟元を正して帰ったり、桐の柾目の下駄しか履かぬという酒落者も居た。職人などそれ程の金持ちとは思えないが、どこかの隅に哲学を持って居り、彼等の見栄を持っていたのであろう。その見栄が折目正しい身だしなみとなっていたのかもしれない。
そして、その長い歳月の仕事の中から得た哲学が、彼等の人生を支え、律義ある活き方をしたのであろう。
毎年春、巣立って来る若者達に出会うと、何故かこうした事を一つ加えてやりたいと思うのである。
細工場で益子の里の青年に教える筆者
提言