教育福島0121号(1987年(S62)06月)-045page

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博物館ノート

幕府財政をうるおし、明治に

栄えた半田銀山(桑折町)

福島県伊達郡桑折町、東斜面に半田沼を囲み、すり鉢状をした静かなたたずまいを見せる半田山があります。この半田山が、佐渡金山、生野銀山とならぶ銀山であったことを知る人は、数多くありません。

半田銀山は、江戸時代には、幕府直轄のじきやま直山として、幕府の財政をうるおし、明治時代には、最新技術をとり入れながら、七・八万人の坑夫が働いたといわれる最盛期を迎えます。明治中期になると、山地亀裂の危険や、採算も合わなくなって、次第にさびれ、昭和二十五年休山となり、二百年余りの歴史の幕を閉じました。

桑折町石川英子氏所蔵の「半田銀山之全図」は、明治以降の最盛期だった鉱山の様子を詳細に描いたもので、明治四十年に土砂崩れで全壊する以前の銀山を知る上で貴重な資料です。現在の桑折町北半田字銀山の地域に相当する地図で、鉱石を選別する選鉱所、石灰や青酸カリをまぜる混こう所、鉱石を焼く焼鉱所などのほか、鍛治場、医局など四十三棟、坑道での漏水をくむ作業に従事していたといわれる囚人六百人を収容する建物も描かれ、半田鉱山は、一大工業団地の様相を呈しています。

当館の総合展示「自然と人間」のコーナーには、当時、半田銀山で実際に使用されていた道具類が展示されています。坑内で使用した手提燈、カンテラ、鉱石を砕いた石臼、ふいご、鉱石を入れて焼いたるつぼ、精錬された金・銀を流し込んで地金を作った鉄製の鋳型等があり、持に同町菅野辰之助氏所蔵のこの鉄製の鋳型は、明治から大正時代に使われ、鋳型の底にわずかに読めるほどの「半田銀山」の文字が裏彫りされていて、当時の面影を知ることができます。

この半田銀山の名を後世に残そうと同町教育委員会を中心として、調査が進められています。将来は、まだ手をつけていない坑道の調査も進めるとともに、八つある坑口のうち安全な坑口を補強して開放し、学校教育や社会教育に役立てようとする計画も立てられています。

鉄製の鋳型と銀の延べ板(複製)

鉄製の鋳型と銀の延べ板(複製)

最盛期の銀山の様子を伝える「半田銀山之全図」

最盛期の銀山の様子を伝える「半田銀山之全図」


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