教育福島0133号(1988年(S63)09月)-027page

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随想 ずいそう

 

俳句の眼と心

 

俳句の眼と心

古市 実

 

もらえるのはせいぜい一、二句で、ほとんどは×か無印の状態が続いていた。

 

十五年ほど前、ある大家に師事し、俳句の道に入ったが、初めからいい句ができるわけがなかった。毎月、五十句ほど作り、先生に送って、句のよしあしをみてもらっていたが、○をもらえるのはせいぜい一、二句で、ほとんどは×か無印の状態が続いていた。

そんなあるとき、添削原稿の末尾に赤ペンで、「俳句は三尺のわらべにさせよ」・「松の事は松に習え、竹の事は竹に習え」という芭蕉の言葉が添えてあった。初学の私は、何のことか理解に苦しみ、入門書や俳論を読みあさって、やっとその言葉の意味するものをつかむことができた。

つまり、俳句に詠まんとする対象にたち向かったとき、三尺のわらべのような、何にでも純粋な驚きを感じる眼と、松の事を詠むときは松に即し、竹の事を詠むときは竹に即して詠めという、物を素直に写生することの大切さを説いた言葉である。別にいうと、「私意を排せよ」つまり、作者の小主観や固定観念で物を見てはいけない。素直に何にでも驚きを感じる柔軟な心を持ち続けなければならないということである。

ところで、俳句は詩である。詩というものは感動がなければ生まれない。感動がないと、いくら五七五の定型に立派な言葉を詰め込んでも俳句にはならない。だから、作句する場合、だれもが苦しむのは、詩因すなわち感動である。ところが、感動にもいろいろな種類がある。人間に感覚と感情があるかぎり、森羅万象あらゆる物や事に対したとき感動が起こるのは分かりきったことであるが、ここで注意すべきは、感動の質の問題である。われわれは日常のいろいろな体験に喜怒哀楽の情を催しているが、私意にこだわって物を見るためか、その感動があまりにも一般的常識的なものに陥っていないかということである。

私意を離れた、この眼と心をもって物に相対したとき、はじめて物はその本質やいのちのかがやきを見せてくれる。そして、そのことに、今までにはなかった新鮮な感動が湧き起こる。その感動を、生の主観を抑さえ、「客観的な物に即して、具象的に表現する」(即物具象)ことが、俳句実作に当たっての最も基本的な態度・方法であるといわれている。

私が、「俳句をやってみませんか」と勧めると、「いや、言葉や表現のテクニックが分かりませんので………」という答えが返ってくることがほとんどである。そんなとき、私は決まって、俳句は言葉や技法の小手先ではなく、この物にたち向かう「眼と心」であることを説いている。

この「眼と心」は生徒や教材に相対するときにも、一脈通じ合うところがあるような気がしてならない。

 

蟻穴を出づこまやかに土とばし 枯声

子燕の喉の奥まで朝日かな 〃

雪に挿す榊のみどり鍬始 〃

(いわき市立四倉中学校教諭)

 

禍 転じて…

 

禍 転じて…

日下隆男

 

月後の就職試験を控え、一番忙しい時期に「入院」させられる羽目になった。

 

四年前に左アキレス腱を切った。七月五日、校内球技大会のバスケットボールで、教員チームの一員として参加している最中だった。担任として、三か月後の就職試験を控え、一番忙しい時期に「入院」させられる羽目になった。

小学一年生の時「結核」にかかって死にそこなった。それ以来は病気や怪我とは縁遠く、健康には自信があったし、元来、せっかちな性分で、わき目もふらずに自分のペースで生徒たちをふりまわしてきた私であった。

いつだつたか、ある先生に「三十を越えれば、五年ごとに体力が確実に落ちてくる。先立つ気持ちを抑えながら体力と相談して仕事をすべきだ」と教えられたことがある。その当時は「そんなものか…」と聞き流していた。生

 

 

 


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