教育福島0133号(1988年(S63)09月)-028page

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徒と一緒に部活動に汗を流し、学校行事でも生徒会行事でも、常に生徒より一歩先んじて行動しようという気持ちがあり、事実、それがある程度まで実行できていたからである。

この怪我を機に私の生活のしかたや物の見方、考え方は徐々に変わってきたようだ。物事にあたる時の「気負い」や、盲滅法突進していこうとする「無鉄砲」なところも少しずつ和らいできた。新幹線から鈍行列車に乗り移った時のように、ゆったりと”旅”という毎日が過ごせるようになってきた。

例えば、以前のように、がむしゃらに一つのことに熱中することが薄らいで仕事をするにも間をとりながら「のんびりやればいい」と考えるようになった。現在、この学校で二度目の一学年からの持ち上がりで、三学年の担任であるが、進路を決定する大事な時期であるにも拘らず、担任としての私の生活速度は以前の半分である。それでいて別段焦りを感じもしない。自分でも不思議に思う。

二つ目は、以前のようにクラス運営や、生徒指導の面で気負うあまり自分から先導する立場に立ち、望む結果が出ないと生徒を叱ったり強い指導を加える、という『先生臭さ』が姿を消しつつあるということだ。以前の熱っぽい私自身は次第に冷めつつある。

自分を変えていくものは一体何なのか?年齢とともに失われていく「体力」と「若さ」がそれであり、「今までの教職経験から無意識に学んできたもの」も関係しているだろう。しかし、最近は「自分の子どもが学校に通うようになって、『先生の目』に『親の目』が加わって、物事や生徒たちが見られるようになったからではないか」と考えている。ともあれ、この“先生臭さ”が姿を消しつつある今、生徒たちと膝を交えて冷静に話し合う機会が多くなったのは私自信の大きな進歩だ。

怪我をしてから「禍転じて福となす」という諺が好きになって、教える自信がついた。四回目の七月五日も過ぎ、就職試験も近い。さて、今年はどの生徒にこの言葉を贈ろうか。

(県立猪苗代高等学校教諭)

 

 

怪我を機に私はこの生徒たちに一段と近づいた

怪我を機に私はこの生徒たちに一段と近づいた

 

教職に就いて

佐藤寄子

 

分で直接やってみたいと考えようになり就職してから教職を志したわけです。

 

私は十年間学校事務という仕事をしていました。学校事務という仕事は、学校教育の裏方として学校運営が円滑に運ぶように条件の整備をすることです。学校教育をわきから見てきて裏方役に満足できなくなり、自分で直接やってみたいと考えようになり就職してから教職を志したわけです。

通信教育で教職の単位を取るためには、レポートを提出しないといけないのですが、レポートがなかなか書けなくて苦労しました。そして、スクーリングに参加させていただくためには事前に夏休み中の報告物の処理をし、給料等の支給準備を済ませて学校側の協力を得なければなりません。事務という立場にあった私にとって、教員免許状をとるということは、いろいろな苦労もあり、つらい事もありました。何度もくじけそうになりながらも、志を立ててせっかくここまでやってきたことを無駄にしたくないという気持ちでなんとかここまで来れたように思います。

採用試験の合格通知を手にした時は、「やったあ」という感激で胸がいっぱいになりました。

教師になって四月に矢吹町の中畑小学校に赴任しました。私は矢吹町についてあまり知らなかったのですが、初めて中畑小学校の門をくぐり出勤して感心したことは、あいさつのすばらしさと高学年生を中心とした自主的な奉仕活動です。JRCの研究指定校でもなかなかあいさつや奉仕活動を先生の指導なしに子どもたちが実行することはむずかしいのですが、中畑小学校の子どもたちは、やさしい心を持っているなあと感じています。

私は、学校で一番元気な三年生を担任しています。男子十四名、女子十名で計二十四名です。男子が多いということもあると思いますが、学級はいつもにぎやかです。初めて三年生と対面した時の印象は、元気よく明るい反面、落ち着きがなく授業中出歩く子どもがいたりして「どうすれば落ち着きのある学級にできるだろうか」ということでした。落ち着いた学級づくりということで、一学期間いろいろと試行錯誤を繰り返しながら取り組んできました。努力のかいがあってか、ようやく落ち着いていきました。

 

 

 


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