教育福島0143号(1989年(H01)11月)-002page

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文化の窓

県立博物館企画展案内

「東北の陶磁史」

会期一月二十日(土)〜三月十八日(日)

会場県立博物館

陶磁器・やきものは、私達の毎日使う食器や貯蔵・調理の器です。したがって、非常に身近かな品物ですので、それにどのような歴史や技術の移り遷りがあったのかについては、大変に興味深いものがあります。福島県域には、江戸〜明治時代の窯場が二十数カ所ほどあり、本県は屯日本・東北地方では最も大きな窯業地でした。やきものは、美術・民芸品的な価値を有すものでもありますが、産業として見た場合には、「原料=粘土・磁石の採取、胎土の調整、燃料の搬入、陶磁器の成形・絵付・焼成、製品の輸送」という、たくさんの工程があり、それたけ多くの人々を養うことの出来る産業でした。

今回の企画展は、このような「産業史」的な視点から、福島の江戸〜明治時代の陶磁器・やきものの歴史を探って見たい、と考えております。

東北・福島を代表する窯業地は、会津本郷焼と相馬焼(藩窯田代窯・大堀窯)ですが、会津本郷焼も相馬焼・藩窯田代窯も、十七世紀の中頃に藩主の茶道趣味のために、茶器・茶陶を焼き始めます。したがって、その製品は、当時、江戸・大坂・京都で流行していた、京焼、瀬戸美濃焼をコピーしょうとしました。

十七世紀末に始まる大堀焼は、相馬藩の地場産業として、江戸後期〜明治期に最盛期を迎えます。大堀焼は、壷甕・碗皿、灯明具・土瓶を大量に生産し、江戸・仙台にまで売捌きました。大量生産・販売のためには、江戸で最も良く売れる製品を安く作らなければなりません。そこで、大堀焼もまた、江戸で流行している京焼・瀬戸美濃製品をコピーしようとしますが、独自の主力商品の開発にも力を入れました。それが大堀焼の場合には土瓶だったようです。

会津本郷焼が隆盛を迎えるのは、十九世紀に磁器・染付の技術を確立してからです。さらに本郷の生産量が飛躍的に拡大するのは、明治後期からの碍子生産の開始以降です。このように、窯業には、それぞれの土地の原料・技術力に合わせて、いかに時代の要求する製品を作り出せるか、によって栄枯盛衰があったわけです。

『若松城下図屏風』(江戸後期/高瀬喜左衛門氏蔵)「会津藩窯瀬戸場」部分

『若松城下図屏風』(江戸後期/高瀬喜左衛門氏蔵)「会津藩窯瀬戸場」部分

会津本郷焼鉄絵草芯文皿(砕石手磁器・江戸後期)

会津本郷焼鉄絵草芯文皿(砕石手磁器・江戸後期)

会津本郷焼山水文染付角皿(江戸後期)

会津本郷焼山水文染付角皿(江戸後期)


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