教育福島0159号(1991年(H03)11月)-014page

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特集2

文化団体の活動

文化課

 

近年、生活水準の向上や自由時間の増大を背景として、県民の文化に対する興味、関心が著しく高まり、文化活動を行う県民の層は広がり、文化活動内容は多様化しています。

また、その形態も音楽・美術・文学等を鑑賞するだけにとどまらず、自ら楽器を持ち、自ら筆を取るなど、主体的に参加する文化活動が増える傾向にあります。

ところで、文化は、人が人として生きることのあかしであり、人間の根源的な欲求であるといわれています。

本県でも、文化を享受し、自らその創造に参加し、文化的環境の中で生きる喜びを見いだす人々がたくさんおり、活発な文化活動を展開しています。文化活動は個人が自由に行うことに基本がありますが、同じ志を持つ人々が様々な組織を作り、協力しあうことにより、 一層の水準の向上を図っています。

そうした組織の活動の中から、一般では福島県芸術文化団体連合会に属する四団体、高校生では福島県高等学校文化連盟に属する二団体、合わせて六団体の文化活動を紹介します。

 

福島県美術協会

会長 渡辺良雄

本会の結成は、昭和五年六月飛田昭喬、伊藤幟、竹内誠、井上理、佐藤二郎、高橋卯八の六氏による、話し合いの上福島美術協会として発足した。現在は殆んど故人になり、高橋氏一人健在で最近まで出品して下さっていた。

昭和十五年福島県美術協会と改称し現在に至っている。本年度は五十九回展を開催したところであるが、戦時中の三年の中断を入れると六十二周年になる。明平成四年は六十回展として、人間なら還歴を迎えることになり記念事業を計画している。

発足当時の創立精神は、本県美術の振興、文化の興隆、新人の育成を眼目とし流派傾向にとらわれず公正な立場で永続的に美術界の中枢として貢献することである。

発足時の初代会長には、当時福島市長の佐藤沢氏を推薦し、展覧会の時は、新会長の御厚意により公会堂を無償でお借りし、会場作成には、角材、抜き板を購入、会員はもとより師範学校の生徒、一般出品者まで手伝ってくれた。

その後、太平洋戦争も終期を迎え、展覧会を開催する環境でもなく、止むなく一時中断することになった。しかし、戦後の物資不足の折り、古キャンバスにチビた絵の具、魚油で溶いた絵の具、それでも制作に情熱を燃やし再興第十四回(昭和二十一年)展を開催した。第十五回は新憲法施行記念福島県美術展覧会として県との共催(県展第一回)、翌十六回は福島県総合美術展覧会の発足に全面的に協力した。戦後疎開して来た一部会員が分離して、二部に分け、審査、展示する方法を取ったが、数年足らずして正常化し現県総合美術展に至っている。

その後、県美術協会は会場難に苦労を重ねて来たが、県美術家連盟と協力し、県文化センターの開設のための運動を強力に推進した。

その間第二十六回(昭和三十三年)は諸般の事情から、第十二回県総合美術展と合同開催という事態もあった。

昭和四十五年待望の文化センターも完成し、第三十八回からは文化センターで開催し、秋の美術展として定着し今日に至っている。

また第二十四回(昭和三十一年)から日本画部も新設し、一応絵画部として整備されたかに見えたが、出品者も少なく、その成果は充分でなく、第四十七回(昭和五十四年)日本画部と分かれることとし、日本画部は日本画協会を結成し現在に至っている。

 

 

 


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