教育福島0164号(1992年(H04)07月)-006page
提言
神、ともにいます距離
福島県教育センター所長
宮島守之
幼い頃、墓参に出かけた時など、母が道すがら見知らぬ人々と親しげにあいさつするのを妙に思ったことがある。わけを尋ねても、母は「そうねぇ。」と言うばかりであった。後年、子どもと散策の途次、同じようなことを問われてとまどったことがある。
山や野の道で、あるいは訪れるものの少ない旅先などで、人は自然と心素直にやさしくふるまうようになるものらしい。実にさわやかなゆかしいあいさつや目礼がとり交わされている。日頃の煩わしさからの解放とか自然に触れて得た心のゆとりなどのみでは説明できない。早朝の都会にもそれは見られる。その道の専門家には自明のことであろうけれど、愚かな素人はそこからあれこれ考えさせられる
人間の心の働きは自然で自由なものだとうっかり思い込んでいるが、実はこれほど不自由なものはないのではないか。物理的な条件にひどく左右される哀れな反射作用なのではないのか。人が人を理解したり受け入れたりする心の働きや広さは、持って生まれた資質や後天的な努力の賜だろうから人それぞれに異なる。だが対象を意識として受けとめる時の心の容量は、万人等しく極めて狭く小さい。物理的にそうなのであって、人は同時に多くのものに意識を分散させることはできないし行動に移ることもできない。満員電車の中のとげとげしさは、人間の狷介さというよりは心の働きの物理的不自由さのあらわれなのである。心のキャパシティを口にする時、度量のほかに意識の不自由さのことを忘れてはなるまい。