教育福島0166号(1992年(H04)10月)-028page
ひとりの子どものえがおを知ったとき
古川啓一
ひとりの子どもの なげきを知った
ひとりの子どもの ねがいを知った
ひとりの子どもの こころを知った
ふたとせすぎて 秋長けて
ひとりの子どもの えがおを知った
M君との出会いは、四月の始業式の時であった。彼は転校生であり、本来ならば応接室で待機し、係が連れて体育館に入ることになっていたが、その部屋には彼の姿を見つけることができなかった。
どうしたのかと心配しつつ、私は体育館にて担任する六年生のクラスを見回したときに、一人の見慣れない子どもを発見した。M君である。
普通は転校生といえば、慣れないために落ち着きのない様子が見られるはずなのであるが、彼は、ごく自然に列に加わっていたのであった。
M君の国籍は「朝鮮」。日本語はある程度話すことはできるが、教科書を読んだり、漢字を書いたりすることは二年生程度の能力しか持っていなかった。また、四人兄弟の長男として、弟達のめんどうを見ながら、母親の手伝いをし、商売の品物の点検をする毎日であった。
私が一番心配したことは、はたしてクラスの一員としてみんなと仲よく学校生活を送っていけるかどうかということであった。
幸いなことにクラスの子ども達はこの転校生にすぐに慣れたが、M君は一向にみんなの前で話そうとはしなかった。友達の話を熱心に聞いている姿は見られるのではあるが、友達同士との会話がないのである。しかし、学校を休むわけでもなく、クラスの友達から敬遠されるのでもなく、学校生活を送っていた。
M君が変わった。社会の時間に…。
朝鮮に関する内容になったときのM君の目の輝きが違うのである。今まで一度も見せてはくれなかったことだけに、私はとてもびっくりしてしまった。
そのとき初めて、「あーこの子は日本の文化や言葉にカルチャーショックを受けながらも、祖国に対する愛国心をもって、自分なりに一生懸命に生きているんだ。」と、私は痛切に感じたのであった。
その後、朝鮮のことを口にすることはなかったが、彼は進んで私に話しかけてくるようになってきたし、授業中の態度にも変化が見られた。
ひとりの子どものこころを知ったとき、初めてその子どもとともにの“共育”ができることを知り、それまで何の手助けもできなかった自分を反省し、えがおを知ることができた喜びを感じたのであった。
(いわき市立小名浜第一小学校教諭)
やさしさにふれて
渡部恵子
小学五年生の頃、叔母がお琴を教えていたので少しの間習っていた。
小さい頃なのであまり鮮明ではないが心の中にお琴を習っている事がすごく幸せなことだったように覚えている。あの頃からずっと習い続けていたらずい分上達しただろうに、と思うと今夏ながら叔母の引越しが惜しまれる。あれから数十年後、偶然にも同職場にお琴の師匠がおられ、七年前から再び習い始めた。私も四十代となり、年をとってからのけいこごとはリズム感も悪く、難しく苦しい時もあるが、仕事以外に何か夢中になるものがほしいと願っていたので、今の所私なりに楽しみながら通っている日々である。
そんな折師匠より勧められ、家元を迎えての二泊三日の夏期合宿に参加した。初めての体験なので、未熟な腕の私が錚々たるメンバー(師範代)の先生方、まして家元先生と一緒に弾くことができるだろうか、と不安と期待と緊張で目的地に着くまでドキドキの連続だった。
一、二日目は、簡単なものから挑戦、合同練習、楽典、個人レッスンと、忙しいスケジュールの中でいろいろな感動を体験した。
音色のやわらかさ、力強さ、バイブレーションとの調和、そして、弾き方の細かい指導、力の抜き方、親指の使い方、均等な音の出し方等々家元先生のやさしい口調で「そうそう大分よくなってきたわよ、その調子でなめらかにね」と励まされ、救