教育福島0167号(1992年(H04)11月)-006page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

提言

 

何を詠むかではなく、どう詠むのか

福島県文化功労賞受賞者

藤村多加夫

 

えている。この一文も従って、ここから出発することをお許し願う次第である。

 

私の書く文章の一切、そのことごとくが、十七文字表現と言う極めて圧縮された型式を採る「俳句」から出発している。私の日常が俳句の中から発生し、俳句から不離不即の中に存在している……と考えている。この一文も従って、ここから出発することをお許し願う次第である。

俳句とは一体どのような文学なのだろうか? 俳句は誠に短い。たったの十七文字音。それは最初から定められた約束であり宿命だ。加えて俳句はそのほとんどが“季語”と言うこれも約束の言葉を第一条件として配置せねばならない。その季語の大半が五文字。これによって差し引き十二文字である。いよいよ窮屈であり苦しい詩型だ。

短い……それは「たった一つの事物きり詠えない」「たった一つの焦点を掴えにゆく」と言う大基本に運動してゆく結果となる。短さは、表現の苦しみと言い替えてもよろしい。たった一つに絞り上げ切った事物自体、俳句に於いては、その物自体が何等かの意志を持つ。いや意志を持たせねばならない。俳句とはそのような難産の産物なのである。私達はこの意志の表現について、長い歳月をかけて来た。その結論は

「何を詠むかではなく、どう詠むのか」

このたったの一行に一切を絞り上げて来たのである。どう詠む……。表現素材に対し、どう思う、どう感じる、どう考える? わかり易く言えば、「感情の移入作用」こそ大切。これがかつて第二芸術とまで評された俳句の次の時代への活路でもあった。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。