教育福島0173号(1993年(H05)09月)-024page
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言っても過言ではない。
現実から逃げだしたい気持ちを抑えていた私は、幼少のころから、日々のいやなことすべてを走ることが忘れさせてくれた。そして自分の存在を確認し、自信を持ち、夢を描き、希望を燃やすことができた。何をしている時よりも自分が輝いているのは走っている時だと思ったから。
走れない時は心が沈み、何をしてもうまくいかないような気がした。
生き生きとした生活をするためにも走らなければと思い、走ることで本来の自分をとりもどせるように感じた。私にとって走ることは、生活の一部であり、生きがいになっていたので、どんな時でも走れたし、そのことで生活に張りがでてくるように思えた。
何でもいいと思う。自分の個性を生かせるもので努力のあとがあり、自分の歴史として残せるものを日々追い求めていくことができれば。
年齢や職業などに関係なく、ひとりの人間として、いつまでも少年少女のように輝く瞳を失わず、無限の可能性に挑戦する姿勢でありたい。
時々、とても若々しく、輝く瞳ではつらつと物事に取り組んでいる年輩の方に会う機会があるが、とてもうらやましく感じ尊敬してしまう。
私も、どんなに忙しく、疲れていても輝きだけは失いたくないと思う。
私が教職に就いたのも、元をたどれば走っていたからだと思う。日々生徒指導の難しさを感じているが、どの生徒も何か輝くものを持っている。そして、無限の可能性を秘めている。一人ひとりの個性を引き出し伸ばしてやることが私たちの使命である。夢や希望を持ち、喜びや楽しさを感じ、少しずつ自信をつけることによって人間は大きく変わっていくと思う。そして、その道を生きがいとしていけるようになればすばらしいことだし充実した人生になると思う。また、生きがいを持つことによって多少のつまずきも克服していけるようになるはずである。
人間としての自分を本当に生かすことができる生き方を生徒と共に考え、生徒一人一人が生きがいを持てるよう支援していきたいと思う。
「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」武者小路実篤
(郡山市立郡山第四中学校教諭)
高原のカラス
片平真由美
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毎年、夏になるとキャンプに出かける。最近、残念に思う光景に出会った。それは、カラスの大群である。
そこは、ブナの原生林に囲まれ、小鳥がさえずるさわやかな高原のキャンプ場である。六年前から、夏の二、三日を過ごしているのだが、以前はカラスの姿を見ることはなかったのに、昨年はブナの木々の枝に多くのカラスがとまっているのを見つけて驚いてしまった。こんな高い山に、しかもいなかったはずのカラスがなぜ現われたのだろうか。
原因は、いろいろと考えられるだろうが、その一つは訪れる人々が増えたことによるのではないかと思う。
キャンプ場周辺の秘湯が、テレビで放送されたためなのか、ここ二、三年のアウトドアブームの影響なのか、訪れる人の数は、六年前に比べると、倍にもふくれあがっている。人が増えれば、ゴミが増える。ゴミが増えれば、カラスが増えるのであろうか。
カラスは、ゴミが捨てられている炊事棟の回りに集まってきている。管理の方たちがゴミの回収に来てくれるのだが、捨てられるゴミの量は大変なものである。また、一部の心ない人達によって、スナック菓子などの食べ残しが散らばっているのも目につくし、ゴミ箱の中に生ゴミを捨てていく人達もいて、ゴミ箱の回りが汚れてしまっている。私たち人間にとっては、いらないゴミでも、カラスにとっては、生きていくためのエサである。
以前、宮城県金華山に旅行したとき、「鹿の島」だと聞いて楽しみにしていったが、島の上空を数多くのカラスがとり囲むように飛んでいて、「鹿の島」というより「カラスの島」に思われた。鹿のえさを低空で飛んできては、人の手から取り返していくカラスの姿に、大きさとくちばしの鋭さから、恐ろしさを感じたほどである。しかし、中には、弁当の残りなどを、カラスにやっている人もいる。そういうことが良いことなのか悪いことなのか考えさせられてし
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