教育福島0173号(1993年(H05)09月)-023page

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随想

日々の想い

 

喜多方にて

岩渕賢美

 

からソフトボール部の会津総体で喜多方に行く、そこで会おう」と約束をした。

 

六月半ばのことである。「いやー、久し振りだなあ、元気でやってっか-」常套の言葉を発しながら、私は焦っていた。不意に人生相談にきたという娘を思いだせない。「お前だれだっけ」とは言えない。困った。会議の直前であったので、改めて会おうということで一応お引き取り願い、その晩古い生徒アルバムの中からようやく見つけだしたS子は、前任校の授業ですら関わり合いをもたなかった生徒だった。とにかく昼間の失礼を詫びねばと電話番号を調べて、「明日からソフトボール部の会津総体で喜多方に行く、そこで会おう」と約束をした。

喜多方は『蔵とラーメンの町』、私が三十代のすべてを「教科とクラスとソフトボール部活動をもって、常に生徒との最前線にありたい」などと公言してはばからず、奔放に過ごした町である。そんな私にとっての喜多方は、何よりも『人情の町』である。町のどこを歩いても顔見知りから声がかかる。昭和六十三年のインターハイ記念大会では県下から集まったたくさんの選手たちを、意気に感じた蔵太鼓保存会の面々が盛大に感動の開会式を演出し迎えてくれた。校内では、素直でひたむきな生徒たち、心を許せる仲間たちや仕事の遅い私を「ご苦労さん」とねぎらい、そして車の雪をそっと払って帰ってくれた敬愛する同僚との出会いもあった。年に一度の喜多方での大会は、そんな懐かしい人々との再会の場でもあった。

S子も約束どおり、私を訪ねてきてくれた。職場での人間関係に悩んでいると言う。試合の合間に話を聞いた。もとより解決の名案などありはしない。同じく私を訪ねてくれた同年代の卒業生らと図らずも旧交をあたためて話も一段落、「先生も相変わらずお元気で、昔のままですね」などと勝手なことを言いながら、「また頑張ります」と帰っていった。S子は、陸上部の選手であった。部活動の指導に向かう途中に、私は彼女にもよく声をかけていたらしい。おそらくは、「頑張れよ」とか、「おっ、調子がいいな」というような軽口であったに違いないが、それが嬉しかったとS子は言う。

教師になりたてのころから、その年齢に応じた仕事をしたいと考えてきたが、最近になって教育に携わることの怖さを強く感じるようになった。今までにも、S子とは反対に配慮のない言葉で随分と多くの純真な乙女心を傷つけてきたに違いない。そして、同じように私だけの記憶からそのことが消えてしまっているのかもしれない。また、喜多方の心温かい人々にもただ一方的にお世話になってきた。わが教師生活の、いわば青春期を過ごした日々に悔いはないと思いたい。しかし、これからはどうあらねばならないのか。感慨深い、今年の喜多方であった。

(県立若松女子高等学校教諭)

 

生きがいを持って

星正子

 

している。十年ひと昔と言われているが、改めて時の流れの速さを感じている。

 

平凡な家庭の中でも、両親の生きざまを見ながら成長してきたスポーツ好きの少女が、本格的に走ることを始めて早二十年になろうとしている。十年ひと昔と言われているが、改めて時の流れの速さを感じている。

振り返ってみると、惰性のようにも思えるが、ひたすら走り続けてきたことが今の自分をささえていると

 

 

 


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