教育福島0177号(1994年(H06)02月)-007page

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人である事を大変誇りに思って来ました。前の意見とちょっと反するようですが、別な見方をすると、相手への思いやりがあり、丁寧な言葉遣いと動作は、ヨーロッパの人々とは違う文化の民族という事でありましょう。戦後の困難な時代を、黙々と働き続けた両親の世代を見て来て、これが日本人の良き特徴であると考えています。

私には、国際化した時代に生きる若者達が、教育においてもドライに、しかもエゴイストになって行くようで、私の老婆心が不安を感じているのかなと、時々考え込んでいます。

私、四十六才。偏差値教育の時代の無表情な若者の内まで入って行く、自身の情熱を持ち続ける事が、先ず嘆くより先、との気持ちも大です。

小学生の時、悪さをして先生にポカッとやられ、しょげていたら放課後、一緒にフナ釣りに連れて行ってくれたり、宿直に押しかけた時は、火ばちでメザシを焼いて食べさせてくれたり、私は、今もってこれが教育の原点であると思っています。いつの時代も、学問の詰め込みだけで、心の通う方法を忘れては、人間を育てる教育は成立しないものと考えています。子供達の登校拒否や、いじめは、つまる所、教育する側の責任が問われる事でありましょう。そろそろ人間としての証しでもある「感動の心」について、考える時が来ているのではないでしょうか。

 

【著者紹介】

 

斎求・いつきもとむ

 

梁川町出身。昭和四十四年十二月/芸大メサイヤバス、ソリストとしてデビュー。四十五年/東京芸術大学声楽科卒業。読売新人演奏会出演。文化放送音楽賞受賞。四十六年/NHK毎日コンクール一位入賞。四十七年/第七回民音コンクール一位入賞。芸大大学院在学中定期演奏会にて第九のソロ、ワグナー「マイスタージンガー」のザックス、シュトラウス「バラの騎士」のオックス等を歌う。四十八年/芸大大学院声楽研究科修了。西独に留学以来、名歌手ヨーゼフ・グラインドル氏に師事。この間、西ベルリンの教会にてバッハのカンタータ等を歌う。四十九年/文化庁芸術家海外派遣員として再渡独。東西ベルリン歌劇場にてオペラ歌手として研修する。五十年/東ベルリン国立歌劇場音楽総監督のオットマール、スゥイトナー教授に認められ同歌劇場に最初の東洋人として正式にバス歌手で契約し、ウェーバーの「魔弾の射手」の隠者役で同年六月ヨーロッパにデビュー。五十一年/ベルリン国立歌劇場を主にロストック国民劇場・マクテブルク市立劇場・シュベリーン国立劇場・ゲラ市立劇場と客演契約を持つ。五十二年一月/ベルリン国立歌劇場日本公演にソリストとして帰国、各地で好評を博す。五月、東独オペラ歌手コンクールに三位入賞。九月、二〇〇年のバッハの伝統を誇るライプチッヒ″聖トーマス合唱団″のソリストとして帰国。マタイ・ヨハネ受難曲を演奏する。五十三年/シュベリーン市でのバッハ音楽祭に出演。五十四年十月/長い伝統を持つベルリン音楽祭にドイツと日本の歌曲で出演。ベートーヴェン・ブラームス・シューベルト・シューマン・レーヴェと日本の古典から現代曲を紹介し、大好評を博す。五十五年二月/ベルリン国立歌劇場日本再公演に参加。同年/作陽音楽大学専任教授となる。五十九年/日本に居を移す。テアトル、コロン(ブエノスアイレス)、ワルシャワ、シチリア、旧レニングラード、旧東西ドイツ等、十四ヵ国でオペラやコンサートに出演している。現在、二期会会員。

 

 

 


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