教育福島0178号(1994年(H06)04月)-006page

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提言

 

「大学教育の現実と夢」

 

会津大学 学長

 

会津大学 学長

國井利泰

 

大学は、大学院も含めて、学校教育における最終教育課程である。かつては指導者層育成の場であった大学も、近代社会の発達と共に、高等学校卒業者の四〇%以上が進学する場に成った。これがいわゆる大学教育の大衆化と云われるものである。我が国の現在の大学では、残念ながら、それに対して全くと云っていいほど対応が取れていない。

良い研究さえして居ればいずれ出来る学生は付いて来るという研究重視の風潮が一流大学では支配的である。「別途、教授法の研究開発が欠かせない」という認識は未だ乏しい。これでは、大学は研究所とあまり代わり映えせず、大学の存在意義そのものが疑問視される。アメリカでは、ハーバード大学など、いわゆる一流大学を中心に、教授法研究所を設置するなど、教授法の研究開発が最近急速に進みつつある。

他方、我が国のいわゆる一般の大学では、発見発明というレベルの研究は論外とされる。教員は他人の研究論文講読を以て研究と称し、学生は四年間の人生の休暇を謳歌するレジャーランドとしての学園生活を楽しむ。これなら、町のカルチャースクールの方が、教える方と教わる方の呼吸がぴったり合うだけ、大学より存在意味が高いことになる。

大学における授業時間と実験時間の合計の平均も、一日当たり我が国の四時間余りに対してアメリカは七時間余りである。学生の予習・復習時間の合計の平均に至っては、一日当たり我が国の一時間余りに対して、アメリカは七時間余りである。このような我が国の大学の成果はといえば、極めて惨憺たるものである。例えば東京大学は、一九八六年にアメリカで発表された、アメリカの大学を除いた「世界大学ランキング」(ゴーマン・レポートとも呼ばれる)によると、第六十七位に止まる。アメリカの大学を入れると、百位以下に転落する。これは、博士号取得率にも端的に現れている。比較的に良い状況の理工農学系ですら、我が国の博士号取得率は、同一人口当たりアメリカの五分の一、ドイツの八分の一、フランスの十分の一である。文科系になると、もっと悪くなる。

専門的能力に乏しく、どこそこの大学を出たと言う肩書きだけの人間を、これから先どれだけ社会が雇用する余地があるのか。雇用しても、そのような人間に何をしてもらえば企業が収支決算が合うのか。これらの問題への答えは、その殆どが毎日の新聞紙面を大きく賑わしている。曰く、「中高年に受け皿無く……」。曰く、「中間管理職層削減で、気が付けば失業者……」。家族を持ちこれから充実した生涯をという年代層にとっては、実に残酷な話である。その対策としても、在籍学生を対象とするものと併せて、大学におけるプロフェッショナル教育の充実、特に社会人生涯教育の一環としての社会人プロフェッショナル講義の、大学と大学院レベルでの実施と、実効性ある内容の整備とは、急務である。

ここで銘記すべき事が一つある。イギリスの自然科学学術誌のNatureが百年前に既に予見した、日本の大学制度の利点である。それは、科学の成果を直ちに工学で製品にする、

 

 

 


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