教育福島0182号(1994年(H06)10月)-006page
提言
変化への挑戦
福島大学教育学部助教授
福島県競技力向上対策本部専属アドバイザー
白石豊
【著者紹介】
白石豊
〔略歴〕
一九五四年 岐阜県に生まれる。
一九七二年 神奈川県立鶴見高校卒業
一九七六年 東京教育大学体育学部卒業
一九七九年 筑波大学大学院体育研究科修了
筑波大学体育科学系文部技官を経て、一九八二年六月から福島大学教育学部勤務
現在、福島大学教育学部助教授。
「教育」という日本語は、読んで字のごとく「教え」「育てるという」意味であるが、そこに上から下へ、あるいは知っている者から知らない者へという、やや押しつけ的なニュアンスを感じるのは私一人のことであろうか。
「教育」という名辞は、英語でEducation、ドイツ語ではEruzie-hungというが、それぞれの辞書をひもといてみれば明らかなように、本来、われわれ人間のうちにあるすばらしいものを「引き出そう」という意味を持っている。そうしてみると、もしも内に入っているものが悪いものならば、それをエデュケイトして表に引っぱり出しては大変である。すなわちわれわれ教師の仕事は、孟子の「性善説」の立場に立って、子どもたちの内に秘められたすばらしいものを引き出してやるということになる。このことはスポーツの指導においてもまったく同様である。
しかし現実には、本来的な意味での教育(コーチーング)ではなく、あたかも動物を調教するがごとく指導が行われることも少なくない。
私はこの四月から県競技力向上対策本部のアドバイザーとして、すでに十数種目の国体候補選手や指導者の方たちに、とりわけ精神的な面でのアドバイスをさせていただいた。またその一方で、体操の少年女子のコーチとして、毎夜遅くまで体育館にへばりついている生活を送っている。そうした中でいつも痛切に感じるのは、いかにしたら選手やコーチの方たちの意識を少なくとも日本のトップレベルにあげられるかという点である。
「どうせ…だから」とか、「…にはとても勝てっこない」といったこれまでの小さな意識から脱却して、誰がこようとも堂々