教育福島0189号(1995年(H07)09月)-029page

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イニングが進むにつれて、グランドでプレーする選手よりも、両校の応援に目が向いていった。特に、決勝戦という独特の雰囲気の中で、選手の一投一打に大声援を送り、必死に選手の名前を連呼し、若さを爆発させている姿を見ていると、グランドでプレーしている選手とともに、決勝戦という同じ場を共有できる両校の生徒は、ものすごく幸せな時を過ごしている思いがした。

彼らは気付いていないかもしれないが、「高校時代の思い出」という掛け替えのない財産を今、作っているのである。

実際、私たちの近くにいた卒業生は「自分たちが高校の時には甲子園に出場した!」とか、「あと一歩のところで残念ながら負けた!」とか盛んに思い出話をしていた。時の流れを越えて、今の高校生と同じ気持に浸っているのだろう。在校生や卒業生にとって高校野球は、「自分の学校−母校」を強く意識できる数少ない機会なのかもしれない。

高校野球は、実際にプレーしている者を育てるだけではなく、応援している生徒にとっても貴重な思い出を作ってくれる。まさにこれこそ、「野球を通じて人づくり」の原点なのかもしれない。

試合には「勝者」と「敗者」がいるが、勝敗を越えた高校野球における大切なものを見つけることができた「夏の高校野球」であった。

(国体局競技式典課主査)

 

素人でいこう

石田正彦

 

、専門といえるものは何一つない。つまり、私は、何事に関しても素人である。

 

私にとって、専門といえるものは何一つない。つまり、私は、何事に関しても素人である。

高校で国語を教えていても、国語に対する専門者意識はない。ある教授との出会いがきっかけで、大学ではたまたま国文学を専攻することになったが、もともと国語や文学は苦手だったし、そこでは、難解だったり、つまらなかったりしても、毎日のように文学関係の専門書をありがたく拝読しなければならず、私にはそれが非常に苦痛だった。せっかく進んだ大学院でも途中で方向を見失い、研究を放棄してしまった。やはり、私には合わない分野だったようだ。国語の教師なのに、国語や文学に対する専門者意識が薄いのは問題だが、自分は国文学に関しても素人でしかないと見切ることで、専門を気にせず、自分の興味に従って自由に読書することができるようになったのは、一つの僥倖だったと思う。

さて、私は昭和六十三年に教員になった。野球部の監督をやらされ、その年の夏の県大会で決勝まで進んだ。甲子園には一歩及ばなかったが、素人監督として、世間でも随分騒がれた。チームは野武士軍団と呼ばれ、試合ぶりは伸び伸び野球などともてはやされた。別に、そういうものを意識的に目指したわけではなく、硬式野球の経験がまったくないヘボ監督と、洗練されたチームプレーが苦手な選手たちとの、一種の開き直りから偶然にできあがったチームカラーだったように思う。少しぐらい格好が悪かろうがミスがあろうが、相手に何点取られようが、とにかく誠合に勝てば満足しよう、というのがモットーで、これも素人だからできた納得のしかただったように思う。

ついでにもう一つ。保原高校に来ていたA.E.T.と二回一緒に山登りをした。私は、登山も英語も素人だから、専門的な説明などできない。だから、もちろん困ることもいろいろある。でも、こちらが素人だと開き直ってしまえば、相手もその気で付き合ってくれる。いわゆるサービス精神やエンジョイ精神が旺盛で、感動の表現のしかたもストレートだから、余計な気遣いは必要ないし、かえってこちらもつられて、非常に楽しませてもらえる。こういう付き合いなら何度でもしたいと思う。

もちろん、私のような生き方だけが正しいとは思っていない。自分にも本気で打ちこめる専門があったらなあーとたまには思う。しかし、自分が素人だからこそ楽しめそうなことがまだまだありそうなので、ともかく、当分は、素人でいこう、と思っている。

(県立保原高等学校教諭)

 

 

 


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