教育福島0194号(1996年(H08)04月)-006page

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提言

感性を磨く

−自然を友に遊ぶ−

 

セントラル野球連盟会長

川島廣守

 

都塵から電車に揺られ小一時間、多摩川べりに住んで二十余年が経つ。澄んだ空、緑なす山々、そして清冽な川の流れがなによりの恵みである。が、身近な自然は変わる。環境をこわす都市化の波は芳速くて大きい。しかし、「天行健なり」で人間の手の及ばない大きな自然はたしかな四季をめぐる。

帰る車窓からみる夕焼けを西に残すころ、秩父の山なみのシルエットが残照のなかに美しい。すぐ対岸の多摩丘陵は目線の高さで、その彩りと、姿が四季の移ろいを教える。うしろは武蔵野の雑木林の名残り、芽吹いたクスギ、コナラ、エゴノキ、ケヤキなどが旧い農家のまわりや保存樹木地として点在する。もう春も遅いが、「寒の戻り」とか、花冷えの日がいかにも長い。日持ちしたレンギョウやマンサクも咲き終えた。春雷もあり、たたきつけるような激しい春雨でモクレンやコブシの花が傷んだ。さくらも満開のころ、雨に打たれた。が、さくらは散る姿も散り敷いた形も美しく気丈である。さくらが散り終えると、にわかに樹々の青葉若葉が芽吹く。春の風物詩である。濃い緑、浅葱いろ、銀や薄紅がかりのそれなど、新緑は多彩である。いまミツバツツジ、コデマリ、ユキヤナギが見事な花をつける。

この季節に思うことは、なぜ、花木や植物は順序をまちがえずに、つぎつぎと目を覚まし、個性ある芽と花をつけるのだろう。造化の妙というほかはない。そしてなぜ、樹齢三百年はおろか千年にもおよぶ老樹に、春が来ると必ず芽吹き新樹の姿で青春に蘇るのだろうか。鎮守の森に樹齢三百年を超えるケヤキが五本、天を衝いている。いま梢から吹きだす淡い緑が見事だ。月詣りする大国魂神社のご神木のイチョウは樹齢千年を数える。その芽吹きも美しい。

 

 

 


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