教育福島0194号(1996年(H08)04月)-027page

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の家では、私が高校生の時まで猫を飼っていた。私が幼いころ、近所から三毛猫をもらったのがきっかけである。それはミーと名付けられた。食卓のおかずを狙っては叱られたり、時々ネズミを捕ってきては家中を引きずりまわしたりと、家族の一員として存在感をそれなりにアピールしていたものである。そのミーが数匹の子供を産んで間もなく、犬と格闘し死んでしまった。朝、自分の布団の中にミーがいないことに気づいた私は、父と一緒に家の周囲を捜して、その変わり果てた姿を見つけたのである。そばの山吹の枝には、ミーの柔らかな白や茶色の毛が痛々しく付着しており、その硬直した体に泣きながら触れた時の感覚は今でも忘れられない。生まれたばかりの小猫も次々と死んでしまい、この強烈なショックから立ち直るまでかなりの時間を要したように記憶している。二番目の猫も三毛であったが、私が高校生の時に交通事故で死んでしまった。それ以来、動物は飼っていない。

最近、生徒の前で私は、「生きていること」の尊さに触れる機会が増えたように思う。そして「生」を考える過程で「死」に言及しようとすれば、私は、生徒の多くが身近にいる大切な人や動物の「死」に直面したことがないという事実を知るのである。「死」を単なる現象としてではなく、心の痛みや悲しみとして感じるという経験が、「生」の尊さを知るうえでとても貴重なことのような気がしてならない。

昨今、コンピュータの進歩で教室の中でも様々な擬似体験の提供が容易になってきた。しかし現実と非現実との接点があいまいになってしまう危険性も否定できない。あの日、廊下で流した彼女の涙は、彼女がまさしく実態の伴う現実から得た財産である。今、私が生徒に与え伝えられるものは何なのか。その方法として何が望ましいのか。ふと、考えさせられた。ある朝のできごとである。

(郡山市立湖南中学校教諭)

 

数量感覚を育てる

阪路裕

 

、そのほとんどが単なる数ではなく、単位がついた意味をもった物理量である。

 

日常生活の中で我々はいろいろな数字情報を目にしている。しかも、そのほとんどが単なる数ではなく、単位がついた意味をもった物理量である。

事象を数字で表せば、客観的になり、比較したり、変化を調べたりするときに便利である。また、データとして蓄積し分析することによって規則性を発見したり、何かを判断するときの根拠にすることもできる。事象を数量的にとらえ、数理的な処理をして考えていくことは非常に大切なことである。

しかし、数量を頭で認識することはできても、感覚的に実感としてとらえることは意外と難しい。一 mの長さは思い浮かべられても、一 s重の重さとなるとあやしくなる。まして、毎日の天気予報に登場する気圧、例えば、九八〇ヘクトパスカルとはどのくらいの大きさの圧力なのか想像できるだろうか。

また、数字だけをうのみにし、数理的な処理の意味を理解していないと、本質を見失い、判断を誤りかねないこともある。五打数二安打だから打率は四割であるといっても、一試合の打率では強打者かどうかは判断できない。アンケート調査などで、調査人数が少ないときに結果をパーセント表示してもあまり意味がないのも同じことである。

理科の実験などで予想した値と少し違った結果が出ると、生徒は「ワー、失敗だ」などと簡単に判断してしまうが、必ずしも失敗とはいえない場合もある。一〇〇m競争のコースを計測して一 m違ったら問題だが、マラソンコースの計測で一 m違っても問題にする必要はないだろう。測定における精度の問題は、誤差そのものの大きさでなく、測ったものの大きさに比べて誤差がどのくらいの割合になっているかで判断することに意味がある。

ある数量を見たときに、その大きさをある程度イメージできるように、または、その数量のもつ意味が分かるようにしたい。理科や算数・数学の授業でも、もっと日常生活にかかわりの深い物理量を取り上げ、数量に対する正しい感覚を、事象を数理的に考察していく能力や態度を体験を通して育てていきたいものである。

理数嫌いとか、理数離れとかいわれているが、数式をいたずらに敬遠せず、数量表現や、数理的な処理の有効性やおもしろさを教えるほうが、案外、理数に関心をもたせることにつながるのではないだろうか。

(福島教育センター主任指導主事)

 

 

 


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