教育福島0198号(1996年(H08)10月)-049page

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博物館ノート会津漆器

−会津絵−

会津塗が産業として興つたのは、天正十八年(一五九〇)の蒲生氏郷の入封以来とされています。近江(滋賀県一の[口野から氏郷に従ってきた職人たちに屋敷を与え、産業振興政策を行いました。保科・松平時代になると、漆木の保護や漆液の質の改良、塗師の統括など、新しい政策の下で次第に制度化されてゆきます。十八世紀前半頃から会津藩の財政が悪化してゆくと、藩政改革として殖産振興が図られることとなり、伝統的な漆器産業の改善に力が入れられました。

こうした中、文化・文政(一八○三〜)の頃になると、「会津絵」と呼ばれるデザインが描かれた漆器群が作り出され、それは吸椀から文房具にいたるまで、様々な器物に及びました。別名「松竹梅絵」と呼ばれるように、そのデザインには松竹梅が多く用いられ、その他に枝菊、破魔矢などからなります。松と竹は緑、その幹は朱で、梅と枝菊は朱や黄で描かれます。破魔矢は黄漆の他に消粉蒔絵という非常に細かい金粉を蒔きつける技法で描かれたものもあります。縁にはうるみ漆一樟)の雲型の上に黄漆で平行線が描き詰められ、そこに菱形に金箔を押しています。会津絵重箱に見られるような、中心から点対称にひろがる構図も、会津絵の特徴の一つに挙げられるでしょう。

彩漆で描く漆絵に蒔絵を併用した可憐な会津絵は、長崎の出島を窓口として輸出も行われ、昭和初期頃まで作られ続けました。

会図絵洗杯

会図絵洗杯

会津絵重箱

会津絵重箱

会津絵喰初椀

会津絵喰初椀


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