教育福島0199号(1996年(H08)11月)-006page

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提言

「奥羽仕置」を考える

−東北と秀吉−

 

福島県文化功労賞受賞者

小林清治

 

。県立博物館の「秀吉と桃山」展も、五万をこえる予想以上の入館者を迎えた。

 

テレビドラマの「秀吉」がなかなかの人気らしい。県立博物館の「秀吉と桃山」展も、五万をこえる予想以上の入館者を迎えた。

十年余り前から私は「奥羽仕置」を主な研究テーマとしている。「奥羽仕置」とは、一五九〇年(天正十八年)七月の小田原落城以後、翌年九月に南部一族の九戸一揆が圧伏されるころに至る秀吉の東北支配をいう。

「奥羽仕置」に対する関心は、これを日本の中世から近世への転換の大きな契機と考えるためである。数世紀にわたる中世は、村々に武士が城館を構えて農民を直接に支配する時代であった。対して近世では、村々の城館が廃止されて武士が大名城下に集住させられ、農民は大名権力の支配をうける。無論、このように大きな体制転換が一挙に実現するはずはないが、しかし「奥羽仕置」はこれを大きく推進する契機をなした、と私は考えている。

 

「奥羽仕置」は、ひとくちに「伊達仕置」であったともいえる。秀吉の私戦停止令に違反して攻め取った会津以下を召しあげられた伊達政宗は、小田原不参の大崎・葛西両氏の宮城県北から岩手県南に及ぶ全領土の接収の大役を務めさせられる。「仕置」に抗して大崎・葛西領はじめ各地に一揆が蜂起した。会津以下を与えられた蒲生氏郷が政宗と共に大崎・葛西一揆の鎮定に出陣したが、ふたりの間に緊張が生じたために政宗が一揆を鎮定、さらに翌年かれが最後的に圧伏した。他方、南部領の九戸一揆は政宗の病気不参加のため氏郷の主導で圧伏された。

一揆圧伏に伴う「奥羽仕置」の終結段階で政宗は居城米沢および福島県北など本領を召しあげられ、大崎.葛西領を与えられて玉造郡岩出山に移り、政宗からの没収地は氏

 

 

 


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