教育福島0206号(1997年(H09)10月)-006page

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提言

真の「生きる力」の醸成を

 

登山家

 

登山家

田部井淳子

 

どうしても高校の教師になりたいと思って大学に入った。教育実習は楽しく、短すぎるとさえ思った。なのに何故、教員採用試験を受験しなかったのか。それは、試験が近づくにつれ、こんな未熟な私が人に教える立場に立てるかと真剣に迷い、悩み抜いたためである。

今思い遣ると、正しい判断だったと思う。教育実習の成績が良いからと有頂天になり教師になっていたら、今の私はなかったろうし、視野の狭い人間になっていたかも知れない。教員は一国一城の主と同じように怖いものはない。生徒も親も「先生、先生」ともてなし、「自分は絶対だ」と思える日々の積み重ねが続く。先生としての自分の言ったことが正しいものとして通用してしまう世界だ。思い通りにならない生徒は、はみだし者として見る。画一的な管理が正しい指導であると思い込んでしまう。親は、子供を思うゆえに強いことは言えない。何かしら問題が生じた時、それが生命にかかわる事態でなく些細なことでも親を召喚する。学校の呼び出しには何をさておいても飛んで来いという態度が見える。一般社会の中で人間関係や組織、対外的責任感をひしひしと感じながら働いている親たちに、それを投げ捨ててまで学校に来いと言えるのは一体どこから生まれるのだろうか。

教師自らが生徒に語りかけ、言葉を交わしてやることさえ出来ず、質問に来るならば教えてやるという態度では、はみだし生徒が増えるばかりではないか。管理職は、自分の在職中はつつがなく過ごせることを願い、事なかれ主義を貫いている。山に行く、海に行くという計画には校長の認め印が必要とされる。何かことが生じたら、その責任は誰が負うのかとの体裁ばかりがまかり通る。体裁は、やる気満々の若手教師が赴任すると、その芽を時間をかけて摘

 

 

 


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