教育福島0221号(1999年(H11)9月号)-029/52page

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文化や学校の様子を学ぶために、一時帰国したのであった。中には、彼女と母親からの手紙や写真、そして冊子が同封されてあった。冊子には日本とイギリスの学校の違いや特色がいろいろつづられてあった。彼女の母親の国ではあったが、彼女にとっては異文化の国であり、さまざまな違いを驚きとして捉えていた。特に時間割や給食、掃除があることが驚きであったようだ。イギリスでは、総合学習はすでに実施されているので、それぞれのプロジェクトで進めるため、時間割は必要がないのだそうだ。 

このように手紙は、過去と現在、未来をつなぐ私にとって心の交流であり、いろいろ伝え合うことができる喜びの一つである。

(喜多方市立第二小学校教諭)



寄り添う

菅野幹子

菅野幹子

登校できない生徒を担任した時、何度家庭訪問しても子供は心を開かず、回復の兆しさえ見せないことがある。焦りや苛立ちを感じ、最後には自分の行為は無であったと自己嫌悪に陥る。そんな私の考えを一新させるできごとがあった。 

昨年、本校に転勤したばかりの私のところへ、以前ある中学校で担任していたO君が突然顔を出した。五年前の教え子である。毎朝頭が痛い、腹が痛いと言っては遅刻、欠席を繰り返していた、いわゆる不登校生。欠席か多く、第一志望の高校に入れず、夜間高校に入ったこと、その後、もう一度第一志望の高校を受け直し、みごとに合格したことは噂に聞いていた。

中学校の同級生より一年遅れの修学旅行に行って来たが、新しい友達がたくさんできて楽しかったとお土産を持って来たのだ。五年前、何か困っていることはないかとか、将来に希望を持って生きていこうと問いかけても返事はなく、ただただ青い顔を下に向け、どんよりした目は私を見ずにいた。 

その彼が、ポツリポツリと次のように話してくれた。「あのころ、友達が学校からよく電話をくれて、『今からでも良いから学校に来いよ、待っているから」と言ってくれたり、先生の時々の家庭訪問や会話が嬉しかった。今でも、あのころの友達とは付き合っている。先生、あのころ学校に行こうとしても行けず、やり場のない怒りと闘っていた自分を、最後まで見捨てず励まし続けてくれてありがとうございました」 

いくら電話をしても家庭訪問をしても、なかなか回復しないO君を見て、自分のやっていることは無だと考えていた。ところが、その間O君は、息切れした自分の呼吸を整え、充電し、上にではなく、しっかり下に根を張っていたのだ。現在、白河市内の進学校の三年生。欠席0。成績はトップ。将来は、教育学部のある大学に進み教師になりたいと、希望に満ちあふれた顔で話す。

教師という仕事はすばらしい。五年も前、たった一年しか担任していない生徒。転勤してから交流もなかったが、彼の心の中には、寄り添ってきた教師の気持ちが残っていたのだ。これからも悩みを共有しつつ、その生徒の良い面を気づかせ、将来に希望を持たせたい。必ずこの子は回復する時期が来ると固く信じてやっていきたい。

(白河市立白河第二中学校教諭)


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