教育福島0223号(1999年(H11)11・12月号)-006/48page

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提 言

スポーツの功徳

本宿 尚

福島県文化功労賞受賞者
本宿 尚

毎年秋になると、福島国体開会式当日の抜ける様な青空を思い出す。

今秋、全く思いがけなく県文化功労賞をいただく光栄に浴した。勿論私が賞に値する仕事をしたとは思ってもいないが、福島国体にたずさわった全員の代表としてのご褒美と思い有難く頂くことにした。

子供の時から根っからのスポーツ好きで、父の勤めの関係でソウル暮らしの時、はじめてバスケットボールの手ほどきを受けた。小学校五年の時、東京に転校し、そこでもバスケットを続けた。また、学校を代表する四百メートルリレーの選手として、今の国立競技場の前身である神宮競技場で第二走者として走った思い出が残っている。

旧制中学は盛岡ですごしたが五年間バスケットにあけくれ神宮大会出場を果し、ソフトテニスでは県のランキング三位、夜は大叔父が経営していた町道場での柔道と、まさにスポーツ漬けの少年期であった。従って智力の向上がおろそかになったことは今でも悔やまれる。

その後戦争での空白はあったが、終戦と同時に仙台でもまたもやバスケットを始めた。

福島県立医大創設とともに県立盛岡中央病院から転勤した時も、かつてコートで試合をしたことがある坪井福島商工会議所会頭小林同専務理事をはじめ多くの福島県の球友にあたたかく迎えられたことは、スポーツの良さの一つである。素晴らしい友人ができたことを肌に感じたものである。

勤務医という本来の仕事の他に、医師会、県体育協会と仕事が増え、多少忙しくなったことと、自分自身の不摂生がたたり、不覚にも平成五年と六年に二回の脳梗塞発作を経験することになった。殆ど歩行もできず、口もきけなくなり、絶望感からうつ状態になってしまった。

リハビリが始まった時、多少お世辞もあったと思うが、


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