第2回全国研究集会報告書-052/60page
必要がある。」と述べていますが,一刻も早く実際的効果的な措置を講ずる必要を痛感します。
カール・ビューラは,「子どもにとって自己の能力を機能させることは快感を味わうこととなる。子どもに内在する潜在力を発揮し運用すること,すなわち機能させることは,自己の可能性の実現なのであり,快感なのであり,子どもにとっては,その時点における生きがいなのである」として,行動における「集中」と「機能快」の教育的意義を力説しています。学校教育は,この機能快を味わわせること,つまり子ども個々の機能的欲求を充足させることを重視しなければなりません。
いま,体験的学習が強調されておりますが,子どもが“将棋のコマ”の立場に置かれて,教師の指示通りに動かされるような体験では意味がありません。子どもに自分が行動の源泉であることが自覚され,自分が行動の主人公であるような体験的学習が必要なのです。子どもが“将棋の指手”となって問題情況に直面し,探究と発見のよろこびを感得してこそ,体験的学習の価値があるのです。柳田国男の「現地に立つ」とした精神と原則を,今日的視点から洗い直してみてはどうだろうか。体験的学習は,そこに子どもが息づいている,子どもが没入し機能快を味わっている,というようでなければならないと考えますが,如何なものでしょうか。
「はきだめに えんど豆咲き 泥池から 蓮の花が育つ 人皆に 美くしき種子あり あす明日何が咲くか」―これは,安積得世の詩集『一人のために』(善本社刊)の冒頭に掲げられている「明日」という詩です。私達は,子どもなりに自己像を描き,揺れながら変わりながら,自己像の形成と更新を繰り返している子ども達の懸命に生きる姿に,花開く期待を持とうではありませんか。子ども達と眼差しを交わしながら,「明日何が咲くか」という可能性への期待を持ちつづけようではありませんか。そこに教師の歓びがあり教育する心があるのではないでしょうか。
時間になりました。終らせていただきます。ご清聴ありがとうございました。