研究紀要第54号 「教育課程の実施に関する研究」 -045/071page
た教科学習のマネージメントが主領域である。
次のねらいとする連続した発鰯助を育てるには,生徒自身の内にあって,教師が方向性を与えることのできる内部エネルギー・・・即ち内発的エネルギーを増大させるための教材・教具のあり方である。それに沿って開発したものを学習の場に適切な方法で提示するという一連の行為が,先のマネージメントと共に車の両輸となって,学習の成立を確実にするであろう。
主体的な学習を促せるかどうかは,やはり教師の開発能力にかかっていると言えるのではないだろうか。
2. サイクロトロン型学習理論による教材・教具の位置
ここに一つのモデルを設定する。ここでいうモデルの性格とは,理科教育の構造やそれを支配する要因を考察して更に,機能的に高める方法をまず仮定し,現実の学習場面でこのモデルがどのように適した場面を作るか,そして,効果的なはたらきをし,事実に合うかどうかを調べることによって,真の構造と法則化が可能かどうかを見いだす努力をすることにある。
最初に考えたモデルが事実に合えば理論としての役割を果すことになる。(註9)
しかし,教育は外的要因や内的要因としての場的,人的,時間的要因などの他にも複雑な相互作用がある。したがって,何から何まで実際の場にあてはまるモデルをつくることはおそろしく困難である。粗っぼい近似ならば何とか結果はだせるが,何の意味も持たなくなる。
そこで理科教育,特に物理教育の一つの側面を強調したモデルを示したわけである。
このモデルを提出したのは文部省高等学校教育課程講習会理科部会の指定発表のときであった。席上視学官から「教育界では種々のモデルが出されるが,言うなれば,これは理論家のオモチャである。しかしそのオモチャが事実の側面を非常によく説明し, その底にひそむ法則をわからせる ものであるならば価値がある」と感想が述べられた。以下に詳述するのは筆者の物性論的教育観という側面である。
さて,高等学校新入生の教室での一週間は机にきちんと並び, だいたい例外なく完全に 整列している。まるで原子が規則正しく並んでいるような姿である。(結晶学の論文によれば完全な結晶は存在せず,人工的に作ることもほとんど不可能である。)また,静かであるという事は内部にひそめたエネルギーはもつが,外に運動という形で表現されない一種のポテンンヤルエネルギーを持っているということである。
しかし,この時期を過ぎると並び方にも乱れが生じて,ちょっと違ったものが入りこんでいることがわかり,学級の雰囲気が変わってきたことに気付く。筆者はこれを格子欠陥(登校拒否)不純物(非行)と呼んでいた。始めはこれらの生徒がいることが迷惑であると考えていたが,後に有難いことだと思わなければならないことに気付いたものだ。今,物性物理学の世界では半導体の研究がカをもち,この特有な性質がたいてい不純物によって現われることを知っていたからである。
また,研究者にとっては,材料をたくさん提供してくれるのに邪魔扱いするのは具合いが悪いことでもある。ちなみに量子化学では,本来の結晶をホストといい,不純物をゲストというそうである。ゲストは歓迎されなければならない。こう書くと俗に言う“お客さま”と思われる方があるかも知れない。ここで言うゲストはホストとの間で,有用な作用をするということである。
学習不適応の生徒をゲストとして見ると,それなりのエネルギーをもっている。もともとエネルギーそのものは方向性をもたない。このエネルギーが生徒という容器に入り切れなくなったときに小穴から噴き出し,他に対して仕事をする。その行動が社会的に好ましからざるものであったと見るべきであろう。
すなわち,このエネルギーをどのような形でとり出すかが教育であると考えるのである。教育はある方向と向きをもつベクトルであると考えるわけである。そしてそのベクトルを操作により増大させ,新たなベクトルの内積を作り出す作業であ