福島県教育センター所報ふくしま No.14(S49/1974.1) -021/022page
あ と が き
第14号をお届けいたします。本号は旧ろう中に発行の予定でしたが,諸般の事情から越年してしまいました。お詫び申しあげます。さて,当センターが昨年1年間に主催し,または会場として実施された各種の講座や研修会等は相当数にのぼり,文字通り「本県教育の振興及び充実」(昭.46.福島県教育センター条例第1条)に寄与したことになる。
そこでは多くの学習理論や教育方法が検討さたれし,研修に参加された現場の先生方の間にも,年々教育研究が隆盛をきわめてきていることは,まことに慶ぶべきことである。しかし,今,それらを謙虚にふりかえってみると,手離しで礼賛してばかりはおれない向きもあろう。それは,学習理論や方法に対する構えの問題である。即ち,学習理論を学ぶ実益は何かということへの理解である。「鹿を追う者,山を見ず」のきらいはないかということへの反省である。
また,研究主題にしても「主体性を養う」とか,「自主性を育てる」とか,「創造性を伸ばす」とかいわれて,研究・実践が行われているが,その成果が日ざましく現れてきているとはいえないだろう。
児童・生徒は本来きわめて主体的であり,創造的であり,時として天才的な科学者であったりするのに,事新しく創造性育成とか探究学習とかを問題にするのは,それなりの必要性に立脚してのことではあるが,それも単なる一時的流行のごときものなのか,あるいはわれわれが,子どもの豊かな創造性を伸ばすといいながら,むしろ押しつぷしているからでもあろうか。
いかにすぐれた学習理論や方法であっても,学習が個別に成立せず,学習を通して人格の形成に,人生を主体的に生きぬくという方向に寄与するものでなければ,とても共同の討議に耐えることはできないだろう。
われわれ1年間の研究・実践をふりかえってみて,やもすると陥りやすいあやまちは,児童・生徒の正しい実態認識の上に,どの学習理論の特性を組織すれば生きて働く学力とすることができるかという教育的見通しがもてたかということである。
これを,目を転じて裁判の審理に例をとるならば,すぐれた裁判官は審理の全過程を通して,まず正しい事実の認定をしようと努めるだろう。適用する罰条などはとの問題である。それは罰条が先にあって事実をそれ当てはめるのではなかろう。ややもすると訴因や罰条や世論に惑わされて真実を見失いかねない。正しい事実認定の上に判定がなされるのでなければ,国家の幸福や社会の幸福,被告人の幸福にはつながらないだろう。
真実発見のための事実認定は証拠による。そして,証拠の証明カは裁判官の自由な判断に委ねられている。
学習理論の研究と適用も上述の裁判の審理と同様,何となく親しみやすい共通点をそこに見るのである。
決して学習理論が先にあって,子どもをそこにはめむものではなさそうである。(U)