福島県教育センター所報ふくしま No.19(S50/1975.1) -025/026page

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あとがき

第19号をお届けします。本号は旧ろう中に発行の予定でしたが,諸般の事情から越年してしまいました。お詫び申しあげます。昭和49年は,悪性インフレと政界の混迷など,政治・経済・産業各界に互って多事多端だったようです。先生がたにおかれましては,教育研究・研修に,また教育実践に実りが多かったことでしょう。本年は,構想を新たにして,前進したいものです。

さて,『一握の砂』(明治43年12月1日,東京,東雲堂書店発行)に,「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」の歌が14番目にでてくる。この短歌で憶い出されるのは,数年前,ある酒席で,国語の先生が,「この歌はインチキだ。だいたい啄木の短歌は,殆どインチキだと評価されつつある」と発言した。国語教師でない同席の者は,ただ唖然として沈黙するばかりであったが,彼としては,啄木の短歌は現実に在ったことを歌わずに,いわば虚構の上に成り立っているから,芸術としてニセモノだという程の主張であったのだろう。

筆者が残念であったのは,彼が国語の先生として,いわゆる「芸術」としての「美の本質」の概念の解釈が未熟なのではなかろうかということであった。たとえば,芭蕉は松島の絶景にまのあたり接して,その現実に「黙して語らず」と絶句している。「現実そのもの」は芸術たり得たいのであって,多少粗雑ないい方をすれば,芸術の美の本質は「虚構」ではないだろうか。

美術の分野で写実派の巨匠と目されているセザンヌは,「彼は正気で狂気の絵を描いている」と,ゴッホをやや侮蔑的に評しているが,ゴッホの評価にはここで言及しないとして,彼セザンヌですら現存の絵と,その当時の現実の風景と対比すると,立木を省いたり,山を高くしたり低くしたり,現実に存在しない事物を虚構したり,色彩を現実のものと変えたりして,絵画技法上のあらゆるデフォルメを駆使しているのがわかる。

また,小説は昔からいわゆる「作り話」だとして,さる教師のように,低次元でのニセモノなどと主張する者は少ないだろうが,日本的特異なジャンルとしての「私小説」なるものすら,殆ど全部が,現実に在ったように見せかける「虚構」だとされている。要するに芸術における「ニセモノ」「インチキ」論は,現実的に本当らしいかどうかという風な低次元でのコメントではなく,「芸術」としての内容・技法・価値の次元でのコメントたるべきものであろう。そしてその評価の一面として,人の情感を容赦なく打ちのめすかどうかにかかっているものではなかろうか。

フランス詩壇の象徴派の大御所として高名なマラルメやヴァレリイについて,とくにヴァレリイは,ヴェルレエヌを気嫌いし,毎夜のごとく泥酔して,カフェーの女を小脇に抱えながらパリの敷石道を何やら喚き散らして下ってくるヴェルレエヌを,借り住まいのアパルトマンの2階から,嫌悪と唾棄の感情を以て見くだしていたといわれるが,これはヴェルレエヌのあの清純な詩の評価とは,直接的には関係づけられないだろう。そのヴェルレエヌは,天才詩人ランボオと同性愛に陥り,円満幸福な家庭を破滅させ,ランボオが彼を捨てようとしたとき,逆上のあまりピストルを発射してランボオを傷つけている。だが,「地球における途方もない通行者」といわれるランボオの世界に圧倒された者にとっては,この事件もランボオの詩を傷つけるものではなかろう。

要するに芸術は人間が創造する「美」の営みではあるが,その人間の生きざま「そのもの」の世俗的な評価とは無関係だということである。ただ明確にいえることは,その「芸術」に,芸術的現実性や芸術的真実性がなければ,「人の心」を打たないという,このことだけではなかろうか。

ともあれ,先生がたにおかれましては新年に当たり,ますますご精進くださいますようお祈り申しあげます。

(K)


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