福島県教育センター所報ふくしま No.22(S50/1975.8) -001/026page
巻 頭 言
第 1 研 修 部 長 星 幸 雄
教 育 目 標 と 通 知 票
数年前,一母親の質問に端を発した「通知票」の問題が,またたくまに全国各地にひろがって,県下の各学校においてもいろいろ論じ合われたことは記憶に新しいところである。この論議の結果,「通知票」は指導要録などの公簿とは性格が異なるものであり,学校独自のものを作成してもよいという結論であった。そこで絶対評価がとり入れられたり,5段階が3段階,あるいは10段階にされたりして,各学校ではいろいろとくふうされたようである。
しかし,これでこの問題のすべてが解決されたことにはならない。なぜなら,やはり「通知票」は教科の評定がその内容の大部分を占めているからである。学校教育は教科だけではなく,人間形成を全人教育の立場から眺め,調和ある発達をめざしているものである。これを具体的に表したのが教育目標であろう。それにもかかわらず「通知票」は,明治以来さして変わることなく教科の評定に終始しているのは一体どうしたことなのだろうか。これでは知育偏重と言われてもしかたがあるまい。
教育目標は,教育関係法令,学習指導要領,教委の方針,児童・生徒や地域の実態,校長の教育理念,教師集団の意向,学校の伝統等を加味しながら,吟味に吟味を重ねてたてられている。そして,「こんな子どもに育てたい」といった具体的な「児童・生徒像」がかかげられ,教育の全活動はこれが実現をめざして展開されているはずである。教育目標がたんなるスローガン的なものであるならいざ知らず,その学校が育成をめざす理想的な児童・生徒像であるならぱ,当然「通知票」の上にそれらのことが具体的に表されるべきではたいだろうか。
教科の評定はたしかに「通知票」にとって重要た要素である。がしかし,人間形成という面から考えた場合,学習の基盤としての生活態度,学習態度はより重視されなければなるまい。生活と学習とは不離一体のものであって,よき生活者こそ真の意昧での学力が身につくものであると考えられるからである。知育偏重と言われている今日,正しい意味における知性の開発を「通知票」によって図るべきではないかと思う。
ところが,「通知票」は,地城的に共通のものを共同印刷しているところが多いようである。共同印刷にはそれなりの理由があろう。しかし,それはあくまでも一つの便法でしかない。「通知票」が「教育目標」とのかかわりあいにおいて学校独自のものが作成され,児童・生徒のひとりー人が教育目標に照らして評定されるならば,教育目標がより具体的に意識され,具現化も図られ,各学校の特色も出てくるのではあるまいか。
次に作成にあたっての観点のいくつかをあげれぱ,
1.学習の基盤としての生活態度,行動を重視し,これに紙面の大半を当てるようにする。
2.「行動の記録」には,教育目標を分析し,具体目標なり具体項目なりをあげ,評定しやすいものにする。
3.「学習の記録」には,学習態度と学習の評定とに大別し,学習態度には各教科に応じていくつかの観点をあげ,その下段に従来の評定欄を設けるようにする。
4.「家庭からの通信」欄を設け,学習面と生活面とに分けて家庭で平素から留意していることや,学校での生徒指導に生かされるような項目をあげ,指導性を持たせるようにする。
以上教育目標の具現化という視点から,「教育目標」と「通知票」はー体的なものとして捉えてきたが,この考えは大たん過ぎるであろうか。