福島県教育センター所報ふくしま No.24(S50/1975.12) -001/026page

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巻 頭 言

研究・相談部長 星 正氏の写真

研究・相談部長 星  正

教職生活のなかで,記憶に残る名授業に巡り合ったことは,誰しも多少の経験はあると思う。しかしながら,その回数が,たとえ少なくとも貴い体験と思うのである。先輩が,「授業とは何か」をふまえ,実地授業によって垂範してくれた思いでは,誠に感激深いものがある。授業は,教師の生命であるとも言われ,学校では,授業を充実する様々な方途が講ぜられているようである。

このごろ,アカウンタビリティという言葉で,学校における研究会が,見積りに見合った責任能方を果たしうるかどうかを考慮する人が多くなっている。国立教育研究所の水原健太郎先生も,そのひとりであり,今後の校内研究のあり方を示唆している。その中で,この種の研究は,学校における教師の自主性の回復なしには,実践の深まりはないことを強調している。

教師にとって,授業は,大きな魅力であり,その効率的な研究は,永遠の営みにも似ている。教師は,いかにして良い授業をするかという課題をもち,その解決に全職員で協カ実践できるならば,大層望ましいことであろう。学習は,児童・生徒個人に対して成立しなければならないと同時に,学習者にとっては,緊張のうちにも,学んで楽しい体験の累積でなければならないと考える。

ブルーナーは,授業の科学的側面を重視して,次のように説いている。それは,子どもは,それぞれの発達にふきわしい考えをもっていること。子どもの行動の発展過程では,ラセン的な系列づけの配慮を忘れないこと。そして,子どもは,学習過程において,科学的な基本概念を発見的に見いだしていくものだとしている。

このような考えは,むしろ,現実の児童・生徒に対して,は握されなけれぼならないことだろう。従って,教師は,指導案の具体的な吟味をはじめ,学習者が,教材を修得することの可能性,授業における核心の盛り上げ、さらに、予想される抵抗点などを慎重に考慮して授業に臨むべきであろう。

私は,過日,県立須賀川女子高校で,鈴木京子教諭の国語の授業を参観したことがある。1年生で徒然草の―節を扱った普通授業であったが,単位時間内でよくまとまった授業であり,大いに参考になった。古典の学習が,現代の生徒に興味深く展開され,文法も,日常的事例をもとに円滑に取り扱われていた。印象的だったことは,生徒個人が,全集団の中で良く生かされ,教師と生徒のコミュニケーションのきめもこまかった。また,生徒が交代で教師の役割を演じ短かく区切ったセンテンスを読むと,他生徒がその部分を読み返すなど,古文に親しみ,読みを深めるための学習形態のくふうなど,良い授業の条件がそろっていたことである。同校では,「指導の間」に関する研究など,教師の持ち味がよく生かきれているとのことである。

授業の質を決めるものは,その目標や内容にかかわる教材研究と,学習方法に要約できよう。しかし,それは,学習者のためのものであることを忘れたくない。また,教材研究は,教師の高い授業に対するあこがれと,良い授業の仮説を求めて,検証しようとする意欲と情熱によって深まるものであろう。

最近,わかる授業・学び方学習・授業の開発などが叫ばれ,また,C.A.lシステムや,マレーの情緒と動機論の研究など豊かに導入されつつある。しかしながら,教科における最も根幹となる基礎的事項が,学習者に理解きれない限り,教育実践の進歩はないと指摘する人も多い。したがって,学校でなければできないこと,教師でなければできないことは何かを再認識し,教師は,授業の専門家としての自覚に立ち,良い授業の創造に努めることが肝要でなかろうか。


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