福島県教育センター所報ふくしま No.26(S51/1976.6) -001/034page

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巻 頭 言

山内正彌

所長 山 内 正 彌

 「書体に真・行・草の三体があるが,これと同様に建 築物にも三様がある。たとえば和室に例をとってみる と,柱・鴨屠(かもい)・長押(なげし).天井(てんじょう)板・床(とこ)柱のすべてに同材の 柾目(まきめ)を用いたものが真書体ということができ,これは侍 が裃(かみしも)をつけて正座した姿のようで,たいへん格調の高 い正式の座敷である。つぎに,これらの部材に板目材が 用いられたり,床柱に異種の柱を用いたりするの行書 体で,ここでは裃(かみしも)は脱ぎ去り,袴(はかま)はつけたままのやや くつろいだ姿となる。さらに草書体になると,丸柱が用 いられたり,天井には網代(あじろ)などが用いられる一方,長押(なげし) はとりはずされる。ずっとくつろいだ形の着流し姿とい ってよい。したがってわれわれの態度は座敷の造りによ って変ってこなければならないのが本来である。」

 これは三十年も前,学生時代に受けた建築学の講義の 一節である。先生の英国風の端正な姿.ゆっくりとした 口調・金釘流の丁寧な板書などが,今もってなつかしく 脳裏に浮かんでくるのである。

 このように深く印象づげられた理由は,専門教科目と しての内容はさておいて,設計者の心構えとして,節度 のたいせつなことを教えられたものと深く心に刻まれた ことと,その後の実生活における経験や杜会事象におい て節度が間われる問題にしぱしぱ出会ったからである。 かって学んだ倫理学の講義など,すっかり記憶のかなた に行ってしまった今日でも,わずか一時間の,しかも専 門科目の講義の中で終生忘れることのない,もっともた いせつな倫理観を,さりげなく植えつけられた先生の人 柄を改めて見なおすのである。

 「建築は心の表現」ともいわれ,権力・格式を誇る城 廓,尊厳を象徴する杜寺,わび・さびを求めた茶室など に,作者・建て主の心が表現されている。一面,建物は その時代の思想・宗教・政治・経済・風俗習慣などが背 景となって造られており,時代考証の重要な資料ともな っている。いいかえれぱ建物はその時代の相をあらわし ているのである。

 そこで.この二十数年間の我が国の建物の変化を見て みると,戦前に比べて,想像もつかないほどの著しい変 化があり,高層化と豊富な色彩がとくに目立っている。 これは高度経済成長や,技術革新のもたらした結果であ るが,住居について見ても,とくに居住性の向上はすば らしいものである。和風と洋風が混然となり,中には奇 異と思えるような表現さえ見られるようになった。いわ ゆる純日本風の建物は特別の場合か,建物の一部にその 面影をとどめているに過ぎない。そこには明るい,自由 な,思い思いの姿が見られるのである。真・行・草とい った区分も判然としないもの,これが新しい感覚という ものかも知れない。

 さて,建物は思想を具象化したものであるという見方 からすると,未だかつてないこのような住居の変化は, 戦前から戦後にかけての思想の変化・価値観の変化がい かに大きいものであったかを示しているといえよう。従 来の固定観念では理解できない面が多くでてきたのも無 理もないことと思う。

 一方,このように進歩した住宅でも,欠点が見え始め ているのである。すなわち,停電時の機能停止,新建材 による有毒ガス,さらに汚水処理など公害にかかわる幾 多の問題などである。これらはすべて,はじめにのべた 人間の節度にかかわるものであって,前後の脈絡を考え ないところにおこった弊害であろう。古いものはだめと きめつけて,新しいから,美しいから,便利だからと簡 単に飛び込むことによって思わぬ失敗に終わることがま まあり,日本人は短絡的な面をもつといわれるだけに注 意しなければならないことである。

 その意味において,次代を背負う子どもたちに,真・ 行・草の節度ある新しい日本住宅を建築していく心構え をしっかりと植えつけることが,今日の教育にもっとも 要望されていることなのではなかろうか。


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