福島県教育センター所報ふくしま No.30(S52/1977.2) -001/025page
巻 頭 言
所 長 山 内 正 彌
自分が担当している児童・生徒の学習成線が向上したときは嬉しいものである。殊に平素あまり成績がよくなく,とくに手をかけた生徒が向上したときはなおさらである。さらに生徒から「先生の教えをうけるようになってから勉強をするようになった」などといわれると,ますます満足感が増すと同時に心の隅から自負心も芽生えてくる。これは教師として率直な気持であり,教育の醍醐(ダイゴ)味でもある。しかし教師がこのような心理状態の時に,成績不振を理由に指導を受ける生徒にとっては,ふだん以上の圧迫感を教師から感ずるものと思う。生徒の学力不振の原因にはいろいろあると思うが,その一つとして担任の問題がとりあげられることがしばしばある。事実,担任が代わってから良くなったとか,悪くなったという話はよく耳にすることで,前任者のときはかなりの成績をあげていたのに,自分が受け持つようになってから下がってきているという生徒がでることがある。こうなると,生徒の学習活動に教師の影響が大きく関係しているということに気づかずにはいられない。生徒の不振の原因が教師にあったとすれぼ,これはたいへんな責任問題である。しかもこのことが案外見逃がされている場合が多いように思われるのである。このへんにも教育論をおしすすめていけば,結局のところ教師論におちつくといわれるゆえんがひそんでいると思う。
われわれはよく「ウマ」が合うとか合わないとか口にする。占い師に言わせれば「相性」ということであろう。占いにとって,これは絶対的なもののようであるが,一般にわれわれおとなの社会では,理性や他の要素を加えて適宜調節しているのが現実で,それだけになかなかやっかいな存在である。かつて教えを受けた先生方の中にもこの「ウマ」の合う先生と,そうでない先生があり,合わない先生の授業はどうも苦手で,あまり熱を入れてその先生の授業にはついていかなかったという記憶をもつているのは,わたくしだけではあるまいと思う。勿論このことは,恩師の人格・識見がどうのということではない。皮相的な見方しかできなかった学生時代のことで,むしろ「ウマ」が合わないと感じただけの理由で,偉才であった恩師の人物の奥底に触れずに終ったということが悔やまれてならないという自省の弁である。こんなことを考えると,教師と生徒との間の「ウマ」ということは大へん重要な存在となってくる。とくに児童・生徒にとっては,教師を選択することはまず出来ない立場にあり,もし「ウマ」が合わないということになれば,担任が代わるまではその犠牲が強いられることになり,この期間のウツウツとした気持ちは,もっとも多感な時期にある児童・生徒にとりたえ難いもので,その代償がつい心のおもむくままの行動に現われてくるということになろう。
ところで「ウマ」を合わせるなどということは,おとなでもなかなか容易なことではない。ましてこれを児童・生徒に求めることはなおさらである。しかし,このことは人間を相手にする教育の仕事においては必ずつきまとう宿命的なたとえば業(ゴウ)ともいえるものである。
さて,この「ウマ」について心理学的にはどのように解釈するかとか,児童・生徒のもつ多くの「ウマ」にどう対処すべきとかいう学問的なことはわたくしには不明である。しかし,とにかく,受け持っている児童・生徒の中には教師としての自分に対して「ウマ」が合わないと感じているものが必ずいるということを認めることがたいせつであり,その「ウマ」の合わない点はどこにあるかを考えてみることはもっとたいせつである。自分のもつ「ウマ」に児童・生徒を合わせようとすると,時には教師のひとりよがりと解され,また教師には謙虚さがないなどと批判されることもある。その意味からすれば,教育の仕事をすすめるために,教師としては,生来もっている「ウマ」の他に数頭の「ウマ」を自ら飼育しておく必要があると感ずるのである。