福島県教育センター所報ふくしま No.31(S52/1977.6) -001/033page

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巻 頭 言

福島県教育センター所長 山  内  正  彌


 教育が国家の重要な機能として学校制度のもとで営まれるようになってからの歴史を簡潔にとらえると,それは「教えること」と「育てること」の調和を求める努カの歴史であるともいえよう。
「豊かな人間性の育成」を基本的なねらいとする今回の学習指導要領の改訂にあたって,中教審の高村会長は,これまでの教育課程について「教える立場だけであり,教わる立場を無視されていた。そのために,教師の善意が,児童生徒には一向感得されず,却って怨みのたねになりかねないという大きな矛盾が生れたのである。」と述べている。要するに「数えること」に傾斜し過ぎている現状を,「育てること」との調和の回復を目指して改善しようということである。
「教えること」と「育てること」の調和は,教師も人間,児童生徒も人間であるという認識のもとに,人間観そして児童生徒観を確立し,それに基づく目標・内容・方法の一貫した教育の在り方をどうするのかということに外ならない。

 たいせつなことは,児童生徒を教育の対象としてとらえるだけではなく,人間としての尊厳を持ち,主体性と独自性のある人格なのだという認識を持って指導の場に臨んでいるかどうかということである。

 したがって,教育は教師と児童生徒の望ましい,しかも親和的な人間関係が基盤となる営みであるということが改めて強調されなければならない。

 ある心理学者は,人格は独自な統一体であって分析し難いものとしながらも,知識・理解,知的能力というような資質を含む「認識的領域」,態度,習慣などの資質を含む「感情的領域」,手技的技能と表現されるような資質を含む「神経筋肉的技能の領域」に分けている。このように分けて考えると,認識の領域と神経筋肉的技能の領域は,「教えること」で働きかけができるが,感惰的領域を「教えること」ですすめれば,必ず児童生徒は認識の領域で受けとめてしまい,わかっているが実行しないという人格の分裂につながるような働きかけをしたことになるであろう。

 学校教育は調和のとれた人格(心身)の発達を大きなねらいとする以上,人間としての児童生徒の理解を前提とした適切な援助・指導,すなわち「育てること」の働きかけを重視しなければなるまい。そのためには,教師と児童生徒の関係を,上位者と下位者の関係,すなわち慈悲と感謝の関係としてとらえるのではなく,人格として相互関係,すなわち共感と賞讃の関係としてとらえて目常の実践をすすめることがたいせつであろう。

 人間性は人間関係のもとで育てられるというのが教育心理上の原則である。教師が本来の力を発揮できるのは人間であるからである。また,教育の効果が教師と児童生徒の人間関係の望ましい在り方を前提としているのも児童生徒が人間であるからである。

 教師と児童生徒の出会いは,筋書きのないドラマの開幕であり,それをよろこびにする演出者は教師である。「教えること」のできる者は,謙虚さを身につけた教師自身であり,「育てること」のできる者は,温い思いやりを身につけた教師自身である。その調和は,教師自身の人格のうちに内在しているものと,考えたいものである。

 今や,教育の作用は,知的水準の高い者が低い者に一方的に働きかける教授としての作用に止らず,学習者の実態をふまえて働きかける指導と治療という作用が重視されてきている。したがって,教育課程の全領域において,学校で営まれる全教育活動において,「教えること」と「育てること」の調和を追求する教師の努力が,熱い血潮のように流れていてほしいものである。


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