福島県教育センター所報ふくしま No.31(S52/1977.6) -017/033page

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随 想

アケビの実

研究・相談部長 長 谷 川 勇 二

 私は13年前家を建て,庭らしいスペースがとれたのでどんな庭にしようかと夢を馳せたことをなつかしく思い浮べることができる。

 それ以後,植木・盆栽に興味と関心をもち,よその家を訪問した際,必ずと言ってもいいほど庭の様子を眺めてからご挨拶を申し上げるという悪いくせがついてしまって困っている。

 水仙や桜草が冷たい風の中に咲きはじめる頃,春の訪れが待ち遠しく,何ということなく庭を眺めまわり,枯れ枝をはさんだりして家内に注意されたものだ。

 小さな庭にところ狭しと雑木林のように植え込み,しかし,名木とはいわれないがその1本1本に,それぞれの思い出や,記念すべきものが多く,花木や実のなる木がかさなっているという感じである。樹木というものはすばらしいもので世話をする人間の愛情によってこちらの思うように育ち,形をつくっていくのでそれは実に楽しいものである。

 転任の記念にアケビのボクをいただき植えてみたが,その年は期待した花も咲かなかった。初めての開花は2年後の5月で,僅かな花をもち,年を経る毎にその数は次第に多くなり,春の山趣あふるるぱかりの花であった。葉かげから,春をこぼすようにひっそリと垂れた紫の花房は,素朴な味に富んでおり,郷愁をそそるものである。実にみごとの一語につきるが残念ながら一向に実を結ばない。それは,庭のせいか,アケビの育つ環境にそぐわないのか,いろいろ考えたがわからなかった。

 ある時,友人が来て「一本ではどんなに花が咲こうと実はならないよ」と教えられ,そうなのかと思ったが,私としてはどうも納得いかない。疑問はそのままであったが,とにかくもう一本求め,近くに植えてみた。しかし結局実は結ばなかった。今年こそは,何とか成功させてみたいと5月の時期になると,それはじっと我慢強く観察したりしたが,なかなか願いを叶えてくれそうになかった。

 50年5月には人工受精以外には成功はあり得ないと考え,自信がないだけに家内に「筆でこのようにやるのだ」と言いつけ,家内は真面目に何日も続けてやってくれたようだが,それも失敗に終った。「義務的にやったのでは,だめだ」と叱りつけたりしたものの,後味のよいものではなかった。

 忙しい中で,ああだろうか,こうだろうかと試行錯誤してみてもだめで,自然の摂理,法則に従って愛情をこめて成功させようと心にきめ,来春を迎えるに希望と夢をたくさざるを得なかった。

 翌年の5月になり,背水の陣で準備にとりかかるというと大げさになるかもしれないが筆と黒い紙を用意し,開花の時季と花粉の状態を毎日観察するようにつとめた。

 土曜日の午後みたら黄色の花粉らしいものが紙に落ちたので,これだとはやる心を抑え,震える手でていねいに筆で紙の上にのせ,少しずつ丹念に雌花につけると,そこには液が出ていてスムーズに吸収していくように感じられた。まさに生命の神秘というものか。

 無我夢中で一気に人工受粉作業は終った。今年こそはと願いをこめたなら成功を夢みて成長を楽しみ,秋の到来を待った。

 秋も深まり二本のアケビは枝が今にも折れそうに一方の木には35こ,後に植えた方には22この紫のつやつやした光沢のある実が見事に結んだ。その歓びと感動はたとえようもないものであった。これは多年の宿願であった夢であり,芸術作品だと思った。若かった鏡石一小時代音楽コンクール地区予選に合唱,合奏の両方が入選した時と同じような歓びを静かに味わうことができた。

 美しい花と実を求めるとするならば,自然の法則に従って雌花・雄花の関係にあり「さいorそつ 啄同機」ということばがあるがタイミング(時季)を忘れてほならないということを更に認識し,自然の偉大な力に頭がさがった。つまり年間をとおしての愛情と誠意,適した土壊,適時適量の水と肥料がすぱらしい結果につながるということである。

 教育は頼信と愛情とによって成立すると言われるが,植物を育てた経験をとおして特にその感を深くしているこの頃である。


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