福島県教育センター所報ふくしま No.36(S53/1978.6) -001/034page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

巻 頭 言

佐藤信久

教育の原点


福島県教育センター所長   佐藤 信久


 着任して1月ほど過ぎた頃であったろうか、ある母親が部長の案内で私のところへたずねて来た。最近、漸増の傾向にあるいわゆる登校拒否がなおったとわざわざ礼をいいにやって来たのである。かわいいわが子がこんなことになるとは夢想だにしなかったことであろうし、親としての心痛も他人には想像を絶するものがあったと思う。それが教育相談部の懇切な指導のかいあって、すっかり変容し元気に登校できるようになったのである。母親のうれしさは格別であろう。私もわがことのように喜び、母親のはれやかな後姿を見送った。昔も山学校などという登校拒否に似たものが数こそ少なかったがあった。しかし親の期待に反してふえうつつある現状である。

 これは、ほんの一例に過ぎないが、児童生徒の発達段階からみても、情緒不安定な世代に位し、めまぐるしく変化する社会の矛盾や不合理の渦中にあって、それらの壁につき破る能力にも乏しく、不満と懐疑のいたみに耐えかねて自己中心の楽しみや、少人数のグループの中に自己の欲求をみたしてゆく傾向もあるようだ。こういう現実のさなかにあって、教育に身をおくわれわれは、さまざまな要素をもつ児童生徒の保護者から、そして社会から期待を寄せられ、責任を負っているのである。

 前おきが長くなったが、こういう現実に視点を据えて、より人間性に根ざした日本人の育成に重点をおき教育課程の改善がはかられたことは歓迎されるべきことである。国立教育研究所長の平塚博士は教育という世界にはいろんな問題が山積しているが、不易の世界と流行の世界を忘れてはならないことだといい、次のように説明している。不易の世界とは、時代が変わっても国が変わっても、あらゆる条件を超越して人間であるということのゆえに誰でもが持っていなければならないものであり、その一つに愛をあげている。孔子は論語のなかで、門弟たちに対して儒教の本質は一言でいえば「それ恕か」と答えている。「恕」とは思いやりである。人間らしさとは思いやりの心であり、思いやりがなければ人間失格だとみている。同様に仏教では「慈悲」を教え、キリストでは「愛」を説く。

 思うに愛とは二つのものが一体となり、より高いものを生み出すはたらきである。したがって、現場にあっては学校一丸となって児童生徒の能力を開花させ、より豊な人間性を啓培させる作用となって表れなければならない。さらに、われわれ教師が教育という大きな輪のなかに入って、より高い、よりすぐれた実践を生み出すことであろう。教育が愛の原点として不易のものであるかぎり、さまざまな指導法も技術もすべてこの「愛」を根源として生まれるものではなかろうか。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。