福島県教育センター所報ふくしま No.36(S53/1978.6) -002/034page
特別寄稿
論説: 教育におけるゆとりと充実
郡山女子大学短期大学部教授 長谷川 寿郎
はじめに
この前の学習指導要領改訂のあとに、「第三体」育という表現が、教育現場で用いられたことがあった。それはどういうことなのかと質問したら、学習指導要領総則の第三体育とあるのを受けているのだと答えてに、唖然とした経験がある。それでは第二道徳となっているのに担当するためには、第二道徳という道徳指導があるのかと反問したが、答えは得られなかった。
このたびの改訂では、「ゆとりの時間」という表現が用いられて、そういう題名の著書も出まわっており、現場では、大変関心をもっているようである。
この表現は、例の第三体育とはちがうようであるが、こういう表現をして、ゆとりの時間といわれる時間帯の計画と実践にのみ心を奪われていてはゆとりのある学校生活になるだろうか。すこし考えてみれば、誰しも気づくはずであろう。
どうも目新しい表現にとびつきすぎるのではなかろうか。
ひところ、「ゆたかな人間性」ということが、盛んに言われていたが、今度は「ゆとりの充実」という仕儀では、おかしいではないか。
こういう疑問をある席上で出したら、「人間性ゆたかな児童・生徒を育てる」ことを眼目として、そのために「ゆとりと充実」を問題にしているのだという。これならば納得のいくところであるが、スローガンめいた言い方に、今まではらはらさせられる場合があったから、現場の識見を疑うような疑問も出したくなるというものである。
筆者自身、識見があるなどどうぬぼれるわけにはいかないが、おたがいに、本質は何かをたしかに押える努力をしていかなければなるまい。かつて、高橋金三郎氏が、朝日新聞の文化欄に、「ゆとりある教育」は可能か(新教育課程案を読んで)という文をのせたことがある。(1976年11月1日)その中の一部を引用させてもらうことは教師の見識にかかわるという意味においてである。
『木材として重要なのは「幹」であろう。しかし「幹」を生長させるのは「枝葉」なのである。いままでの教育が、枝葉をみんな幹にしてまちがった。しかし、枝葉末節をみんな除去して幹をふとらせ生長させることはできない。「薄い教科書」でなければ、内容精選にもならうず、ゆとしのある教育ができないという「ゆとりのない教育思想」が最大の問題でなかろうか。教師の一人ひとりが、子どもの実態に即して、教材に濃淡をつけてゆける見識とそれを生かす環境が望まれる。』というのであった。氏は、今度の改訂の効果が裏目に出る恐れがあると指摘していた。われわれは、このことを十分考えなくてならないと思う。
改訂の効果を裏目に出さないようにするには、教師の努力だけではなくて、社会一般の風潮が、その流れを変える必要がある。しかし、このことにチャレンジするにしても、われわれは改訂の真意を正しく汲みとらなければならない。
このような意味で、もとめられるままに標題について二、三の所見を述べることとした。大方のご批判を願うものである。
1.「教育課程の基準の改善のねらい」における「ゆとりと充実」の問題の位置と役割について
「教育課程の基準の改善のねらい」の3つの項目において言表されているものは、全一の構造をなすものと受けとめるべきは言うまでもないであろうが、ねらいの1は目的を、ねらいの3は、内容・方法を、ねらいの2、すなわち「ゆとりの充実」は、内容・方法を展開・遂行するについての不可欠の基本的要件と受けとめることもできると思う。
学校教育の目的は、人間性豊かな児童生徒を育てることにありとし、そのためにひとりひとりの児童生徒に対し、得に留意すべきポイントが7つほど示されている。