福島県教育センター所報ふくしま No.37(S53/1978.8) -001/030page
巻頭言
起点からの発想
教科教育部長 根本 敏雄
行きつけの何軒かの本屋については、どのたなにどんな本が並べられてあるか、おおよそ頭の中にはいっている。だから、新刊図書目録などを見なくとも、そのたなに仲間入りした新しい本はすぐ見分けがつく。そんな新しく仲間入りした本の中から、心にかけていたような本が、そっと顔をだしているのを見つけたときなどは、なにか貴重なものを掘りあてたような喜びを覚えるのである。しかも、何冊も並べてあるのではなく、それ一冊だけのときなどはなおさらのことである。
求めた本は辞書を手まめにひき、時間を十分かけて読むことにしている。もともと、語いや解釈力の不足のため、必要にせまられて辞書を使うことが多かったが、最近は、一応自明なものとして吟味の対象におかなかったようなものをも、積極的にひきなおしてみることにしている。そのたびに、これまで気づかなかった新しいものを発見できるからである。そんなことで、私の辞書との付き合いは、単に当座の用をたせればよいというものでは、なくなってしまった。
すなわち、さしせまって必要な「読み」や「意味」だけでなく、その「語源」や「用例」など、さらには「関連語」とか「派生語」までも、そして気がむけば、いろんな種類の辞書を使って調べることにしている。そんなわけで、私は手もとからいつも数種類の辞書をはなさないようにしている。「文字」とか「ことば」は面白いもので、特にその語源的意味をたどっていくと、何も考古学的な調査をしなくとも、数百年、数千年前の、その「文字」や「ことば」に託した人間の、素朴な「思い」とか「願い」のようなものをとらえることができるのである。このことについて、渡部昇一氏は「英語の語源」という本の中で、「ことば」は「イメージの化石」だと述べているが、まさに的を射た表現だと感心させられる。
このたび、高等学校の新しい学習指導要領が示された。これで、小・中・高全部がそろったことになる。その意図するところのものは、学校生活をもっと「ゆとり」のある充実したものにという願いからであることはご承知のとおりである。ところで、この「ゆとり」と「学校」ということばは、実にまことに不思議な縁で結ばれているのである。すなわち、学校を意味する school(英)、schule(独)、e'cole(仏)などの語源を調べていくと、すべてギリシャ語のschole(leisure;spare time;閑暇の意)にたどりつく。「閑暇」と「ゆとり」とは同義語ではないが、たがいに包摂し合うきわめて近似な意味をもつことばなのである。私はそこに、あまり加工されない草創期の教育の、真の姿をかいまみる思いがしてならないのである。