福島県教育センター所報ふくしま No.42(S54/1979.8) -001/034page

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  巻 頭 言

斎藤氏写真

   あ  る  朝


  経営研究部長   斉  藤  信  夫


 近くの小学校に通う児童たちの元気な声が,4階の経営研究部室まで聞こえて来るのを,毎朝楽しみに待つようになった。そんなある朝,いつもの調子とは違った,一際甲高く,弾んだ声が,今開けた窓から飛び込んで釆た。驚いて見おろすと,集団登校の列に,野良ねずみが紛れ込んだらしい様子。何かの拍子で,道路わきの下水から出て来たのであろう。喚声を上げる彼らを見ながら,ふと,「虹を見て,心躍らざりせば,われ死にたるも同然なり。」という詩句を思い出した。ねずみといい,虹といい,目新しくもないものに,叫びを上げたこの子供たちや詩人のように,日常見慣れた事物に対して,ある種の感動を覚える柔軟な感性,みずみずしい感覚を,私は失ってしまっているのではないかと心したのである。
 “Man was made to grow,not stop.”(人は,成長するために作られたもので,停止するためではない。)という言葉があるが,私たちは,あるものを脱ぎ捨てて,あるものに成ろうと進み行くべき存在であると思う。このことは,人の一生が,内なる人の日々向上進展にあることを意味していると思う。
 従って,朝目覚めたとき,今日も一日生きることができることに,感謝と喜び,希望と責任の混じり合った感動を覚えて,じっとしていられない心のほとばしりをもって一日をスタートしたい。目に触れるもの,耳にすることに,美しいもの,善きもの,真なるものを見いだし,生の畏(おそ)れから生ずる感動をもって,その日果たすべき一事一事を慈しみ,瞬間瞬間に充実して,「意味を完結した生」とすべく精進したい。様々な出来事に遭遇しながら,その中にあって,「足ること」を学び,「外なる人は破るれども,内なる人は新たなり。」との感動の叫びを発して一日を閉じたい。
 さて,「子供は,感動がなければ理解しない。」と言われている。私たちによって与えられる諸種の感動を通して,児童生徒は物事を理解し,体験領域を広げ,深めて,心身の成長発達を遂げていくのであろう。それらの感動を与え得る根源となるものは何であろうか。私たち自身が,日々の営みの中で,絶えず,内なる人の向上進展を志向して生きるとき感得されるところの,言わば「求(ぐ)道者的感動」が,それらの根底に必要であろうと思う。教える者の出発点はここにあるのではないだろうか。

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