福島県教育センター所報ふくしま No.45(S55/1980.2) -001/034page
巻 頭 言
デ ィ ス コ に の る 教 師
― 相 談 的 な ア プ ロ ー チ ―
教育相談部 横 内 直 典
当教育センターの教育相談講座に参加される先生方は、講座要項等によって、一応は、内容を承知してのうえとはいえ、それでも、なお、期待と不安を持って参加されているのが、大部分であろうと思います。そして、実際、入室すると、ディスコ音楽が流されているので、研修の場には、なじまないものを感じられるようで、一瞬、とまどわれる先生方が多く見うけられます。
続いて、簡単なウォーミングアップ。そして、軽快なディスコのリズムに合わせてのダンス。これが講座のイントロとなります。この時になってくると、先生方の動きに、明らかに相違が見られるようになってきます。その第1は、ダンスに熱中してくる人であり、第2は、一応そつなくやっている人、そして最後は、できるだけダンスの輪から離れ、傍観的な立場をとろうとする人と、大きく 3 つのグループに分かれてしまいます。
ところで、私たち教師は、目の前の子供を「わかる」にしても、二通りのわかり方があるように思います。そのひとつは、教師が、自分の既存の固定した「子供像」に照らし合わせて、それでわかったとする「わかり方」と、もうひとつは、教師の前にある子供の独自なあり方、独特な生きた体験に心を開いて、その、ありのままをとらえることによって、わかる「わかり方」であろうと思います。
おそらく、ダンスを傍観的な立場にたってやり過ごそうとする人の「わかり方」は、前者の「わかり方」に陥ってしまうに違いありません。このことは、ありのままの自分を、素直に表現することへの抵抗が、他人の素直な表出をも拒む結果、そうなるのだと思います。
林竹二前宮城教育大学長は、「学校教育における子供の不幸の根本は、子侠が感受性のかたまりというべき存在であるのに対して、これを教える教師が、考えようもないくらいに、感受性を欠いている事実の中にある。」といっています。また、このことは、「教師」の代りに、「親」の文字を置換えても成り立つように思います。教師や親は、自分が、小さい頃、「素直でいい子だった。」、「頭がよくてほめられた。」という経験などから、時として、無意識のうちに、子供の「姿」を固定化し、かえって、人間的なものへのアプローチー知・情・意の調和のとれた発達一への配慮を忘れているような場合も少なくないと思います。
実は、このことが、教育相談的立場から考えれば、大いに問題になるところです。教師(親)が、子供の次元まで歩み寄り、子供が何を考えているのかを、感じとる努力なしに、教育相談は成立しないということは、だれもが承知しているところですが、頭でわかることと、からだでわかることということは、必ずしも、同次元とはいえないでしょう。
そこで、教育相談的立場では、「ディスコにのる教師」であることが求められるのだと思います。